【講演会・フォーラム】
【日野秀逸先生の医学概論・・連続5回】
医療倫理の展開を訪ねる旅-
日野秀逸
医師、医学博士(大阪大学)、経済学博士(東北大学)
【第5回】
19世紀末の治療革命以来の医学・医療の発達と新たな倫理的課題
近代医療・現代医療における倫理的課題
- 予備的事項:1回目の質問への回答
- スローガン風に言えば、「万学の素人」です。マルクスが次女のラウラ・マルクスからの問いに答えた「好きな格言」を20歳の時に読みました。それが自分の格言にもなりました。
- 「人間的なことで私に縁のないものはない」(「人間に関することで余の関せざることなし」)
- 医療労働対象を規定する要因(第一回で述べたこと)
- 医療とは何か、の理解によって規定される。階層・問題の範囲(急性期だけ・治療(医療)だけ・介護まで・生活まるごと)
- 医療労働手段→医学的認識と熟練(技能的認識)
- 社会的制度→医療保険(重に公的医療保険制度)・社会保障制度
- 人間をどのように捉えるか→基本的人権
- 人権思想の成熟度・定着度
- 人権思想は、対象の拡大にも作用するが、不当な拡大に歯止めをかける。
- 資本主義の発展段階
A 医療労働の対象を決めるものとしての医療倫理
- 医療労働のあり方を具体的に決めているのは、医療労働過程におけるこれら3つの要因である。
たとえば、人間の身体の奥深くにまでメスを入れることができるかどうかは、労働対象がどこまでの範囲かということであるが、外科を例にとれば、麻酔、無菌法、輸血が可能かどうかなどによって左右される。。
麻酔剤もその量を精密に制御する装置も、無菌にするための薬剤や器具も、輸血セットも労働手段にほかならない。
つまり主として労働手段によって規定されるのである。
- また、その社会のごく一部の人しか、その手術を受けることができないのであれば、社会的レベルで見て労働対象が広がったとは言えない。。
必要な人が、費用の心配なく手術を受けられるようになって、はじめて労働対象が広がったと言えるのである。
- こうして多くの専門家が、当該の労働手段を使いこなすことができるようになる。
- 一般的には医療労働の対象が広がることは進歩である。。
しかし、むやみに広げすぎていいわけではない。安全性や効果が確かめられていない薬や機械を使うことは、ましてや無断で試してみるなどというのは、進歩どころか退廃である。。
この点では、労働対象の規定には、人権意識の成熟度・定着度も関わってくる。。
これは、医療倫理の重要な内容をなす。
医療労働の対象を規定している倫理的要因
- 日本国憲法による健康権・生存権の規定は、日本の医療労働対象を戦前とは比較にならない規模で拡大するよりどころとなってきました。
- 人間の尊厳にふさわしい生活を営む権利を実体化させるには、「朝日訴訟」に代表されるように幾多の困難なたたかいが必要であったし、今後も必要です。
- 国民一人ひとりのなかに人権思想が成熟し定着することも、医療労働にとってきわめて重要な役割を果たします。
- 人権思想は、医療労働対象にとって二つの方向に作用します。一つは拡げる方向です。
もう一つは、安全性の確かめられていない手段や方法を用いて、不可逆的損失を引き起こす可能性の高い部位に働きかけるのを防ぐ方向です
(この点では労働手段への抑止的規定を行うことになります)。
医学が生命現象を人工的に左右できるほどに発達した今日では後者の機能はとくに重視されるべきです。
- 医療は基本的人権、つまり生存権や健康権と密接にかかわった仕事です。
医療の内在的論理からいえば、医療労働の範囲をどこまでにするのか、これは単に医学が決めることでもあるいは医療技術が決めることでもありません。
- 戦前、死ぬ間際に死亡診断書を書いてもらうためにだけ医者を呼んだという苦い教訓から、岩手県沢内村の乳児死亡率をゼロにしたり、老人医療を無料化して生命尊重を行政に根づかせるという立派な仕事が始まったということに象徴されているように、なにが人間の基本的な権利なのかということによって、あるいはその基本的な人権、生存権、健康権の思想がどのくらい成熟し、国民のなかに定着しているかによって医療労働の範囲は狭められもし、ひろがりもするのです。
「大飯原発 3、4 号機運転差止請求事件」判決
- 第11条は「憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」
- 第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする」
- 第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活(wholesome and cultured living)を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
- 「生存を基礎とする人格権が公法 ,私法を問わず,すべての法分野において ,最高の価値を持つとされている 以上,本件訴訟においても よっ て立つべき解釈上の指針である」 。
- 「個人の生命,身体,精神及び生活に関する利益は,各人の人格に本質的なものであっ て,その総体が人格権であると いうこ と ができる。 人格権は憲法上の権利であり( 1 3 条,2 5 条), ま た人の生命を基礎とするも のである がゆえに,我が国の法制下においてはこれを 超え る価値を 他に見出すこと はできない」。
- なお、基本的人権に関わって強調すべきことは、「手続きにおける人権保障」です。目的が人権保障に適っていたとしても、手続き面での人権保障、具体的には当事者決定権(知る権利の保障を前提として含む)が保障されなければ、現代の人権保障としては、不十分です。
B 近代医療の成立
- 近代の保健・医療の標識は、
- ①
- 科学的基礎を有する
- ②
- 有効な具体的・物的手段を有する
- ③
- 専門家によって行われる
- ④
- 全国的行政機構に則って実施される
の4点である。
- これらが出そろうのは、19世紀の後半である。
これらの要素は、個々には必ずしも19世紀半ばから後半にかけて形成されたものばかりではないが、全体としてこれらの要素が出そろうのは、当時の最も発達した資本主義国・工業国のイギリスにおいては、19世紀の後半であった。
- 「人権思想」とりわけ「生存権」が、医療実践に制度としては登場していない。
- 医療の提供目的は何か、という観点から近代医療をみれば、まずは労働力と兵力の確保に向けられた。
それは現役労働者と将来の労働者を産むことの出来る女性である
(高齢者、障害者は除外。ハンセン病者に対する戦時中の罵り「座敷豚」)。
- 第二は、戦争政策である。軍事的研究も含めた医学・医療の戦争への動員である。
- 第三は第二と重なるが、植民地政策である。
→典型例としてのアウシュビッツと「731部隊」。
労働手段の発達――外科を例に
- 19世紀後半に入ると、イギリスやドイツの化学工業の発展が、医薬品の開発に大きなインパクトを与えるようになった。
とくに産業革命のリーディング・インダストリーであった繊維工業は、染料の開発を要求し、染料の化学構造は抗炎・静菌・殺菌作用を有する物質に類似していたので、多くの染料製造会社が合成化学薬品の製造に乗り出した。
- サリチル酸のような抗炎剤や、ヴェロナールに代表される催眠剤が次々に開発され実用され、実用に供されるようになった。
染料会社から出発した製薬会社としては、バイエルやヘキストがあり、旧来の薬種商から製薬企業に転じたものにはメルクやシェーリングなどがある。
- 有効な薬品の一つの頂点に位置したのが、梅毒の特効薬としてのサルヴァルサンであった。
ドイツのエールリッヒと日本の秦佐八郎が開発したこの新薬は、色素から合成されたものであり、化学製剤の先駆をなした。
- 麻酔
- 無菌法
専門家が担い手に
- 第1の条件:
- 学ぶべき内容の形成。
細菌学や栄養学などの新たな学問も登場。解剖学、生理学、病理学、診断学も19世紀を通じて大きな発展を示した。
これらの学問が、系統的に、しかるべき師について学ばなければ身につかないレべルに達した、ということを示している。
また、治療効果は大きいが、同時に危険性をも併せ持つ麻酔剤や消毒薬、さらには化学合成による鎮痛解熱剤などが登場したが、それらを扱う者に対して、専門的な知識と訓練を要求するようになった。
- 第2の条件:
- 19世紀の後半に日本(1868)、ドイツ(1871)など、民族的統一国家が次々に登場し、集権的国家が全国的規模で権力を振るうことが可能になり、全国共通の資格を、国家の名において認知できるようになった。
中央政府から委任を受けて、地方政府が資格を認定する場合もある。
- 第3の条件:
- 最も根本的なもの。医療への国民の需要が高まったこと。
医療に病気を治す能力があることが、社会的に認知されたこと。
医療サービスを消費する人数の飛躍的拡大を促し、治療の場としての病院や診療所の数を急速に増やした。
こうなれば、サービスに対する品質管理が社会的に必要になる。管理は人と場の双方で行われるが(日本では医療法が場の管理の、医師法や保助看法などが人の管理の根拠法である)、専門職能制度として、人の管理が先行したのである。
日本の近代医療―富国強兵策として
長与専斎から後藤新平へ
- 日本の保健・医療行政の基礎を作り上げた長与専斎と後藤新平の間には、政策思想において微妙な違いがある。
長与は、ヨーロッパ(とくにイギリスとオランダ)の環境衛生の改善を主とし、自治的性格を重んじる衛生行政の総合的展開を本来的には望ましいものとして、悪戦苦闘を重ねた衛生行政官であった。
後藤は、長与の影響も受け、またイギリスの公衆衛生や地方自治制度に対するそれなりの評価も行っていた。
しかし、彼は長与のような葛藤を経ずに、富国強兵・治安維持のドイツ的・ビスマルク的な衛生行政を追求した。
- 両者の相違は、それぞれの個性や経歴の違いにもよるが、主として明治期の一大民主主義運動であった自由民権運動との距離に由来したと考えられる。
長与が衛生局長として仕事をした時期は、まさに自由民権が全国各地で事実上、地方政権を担うという経験を持った時期であった。
「自治衛生の大義」という長与の言は、「自由自治元年」という旗を掲げた民権派との親近観を感じさせる。
後藤は、伊藤博文や山県有朋に代表される明治憲法体制と天皇制絶対主義が確立される時期に、高級官僚として出世した有能な官僚であった。
- 「自治衛生の大義」から「富国強兵・治安維持の衛生行政」への転換は、近代日本の 保健・医療の体質を決定づけた転換であった。
住民自治を本旨とし、住民参加を推進力とする保健・医療活動と、富国強兵・治安維持を本質とし、官治的上位下達を推進力とする保健・医療活動、この2つの基本的方向の選択が、わが国の歴史において、その後も繰り返し問われてきたのである。
富国強兵と治安対策としての保健・医療政策
- 第4代衛生局長になった後藤新平(1857-1929)の衛生行政思想の原点と目される『国家衛生原理』は、社会ダーウィニズムと富国強兵論を混ぜ合わせたものである。
後藤の新しさは、まだ日本の資本家たちも政治家たちも、労働者保護立法の意義を理解していなかった時期に、労働者保護施策の必要性を主張したことにあった。
- 明治21年に『大日本私立衛生会雑誌』第23号に掲載した「職業衛生法」において、富の源泉は労働者・貧民にありという素朴な労働価値説に立脚し、富国強兵のためにも労働者を保護する施策は、国是たる富国強兵と一致するものであると主張した。
後藤は、いずれ前面に出てくるはずの労資紛争、そして社会主義・共産主義運動を未然に防ぐためにも、労働者に対する保護施策の必要性を具体的に提示したことにある。
- 彼の政策案には、ビスマルク流の疾病・労災・年金保険のほかにも、低廉な労働者住宅や、労働者の子弟に対する実業教育など、広範な内容が含まれていた。
後藤の新しさは、労働者に対する社会政策を、生産力増強的視点と治安対策的視点を統一して展開したことである。
- 後藤の政策論は、当時の官僚・政治家・財界人の労働者政策に関する認識をはるかに超えた開明的・啓蒙的なものであったが、生産と軍事に役立つものに対する一定の上からの恩恵的な保護を提唱したのであり、また社会的な騒動を防ぐのに役立つ限りでの譲歩策を提起したので、労働者・貧民がおとなしくしているのであれば、何も特段の施策は必要ではなかったのである。
- したがって、高齢者や障害者などの、生産と軍事に貢献できない人々はそもそもから問題にされなかったし、社会運動や社会不安が生じなければ、何もやることはないというのが本音であった。
この点は、天皇に忠実な官僚後藤新平の限界であった。
保健国策――人間の全面的管理
- わが国の保健・医療と戦争との関係を端的に示すのが、厚生省の設置であろう。
厚生省は、「保健国策」推進の機関として設置されたからである。
保健国策という言葉は、昭和初期から医療関連雑誌に登場していたが、国の政策として動き出したのは、1936年6月19日以降のことであった。
- 内務省は現在の厚生省、自治省、警察庁などの仕事を管掌していたが、そのなかから、狭義の内務、警察及び地方行政以外の分野を、新しい省に移管することになり、具体的には社会局、衛生局が軸になるので「保健社会省」という名称が提示された。
結局厚生省に落ちついたのである。厚生省は1938年1月1日にスタートした。。
- 厚生省の課題
- ①
- 国民の体力管理
- ②
- 日常生活全般の管理
- ③
- 日中戦争から復員した軍人およびその家族の保護
これらを通じて最優先されたのは、兵隊確保のための諸施策。具体的には、結核対策、体力増進のための国民体力法制定、次の世代の兵力・労働力確保の母子保健対策であった。
- いずれも惨憺たる失敗に
現代の保健・医療――社会改良から人権と参加へ
- 19世紀初頭までの支配的な社会的意識は、古典的自由主義といわれるもの。
- 自由で平等な個人からなる資本主義において、各個人が、彼とは利害関係のない第3者の眼を意識し、第3者の支持を得るために自己規制を行うので社会的秩序が成立する。
- この関係は経済においても貫徹するものとされ、自由で平等な個々人が、自己規制的に振る舞うという前提のもとに、自由に自らの経済的利益を追求することを承認した。
- 軍事、外交、治安などの例外を除いて、社会生活の基本は市場における個人と個人の等価交換によって矛盾無く進行するので、行政の関与は極力避けるべきであるとした。
市場は見えざる手であり、市場において自由に委ねることを資本主義社会の基本的あり方であると主張した。
- この立場からすれば、医療サービスも市場関係に置かれ、自己責任において購入すべき商品ということになる。
長い年月にわたって、保健・医療サービスは、裕福な人々しか手に入れることのできない商品であった。
- 産業革命がもたらした巨大な社会的変動のなかで、労働者階級が富を生み出す原動力でありながら、劣悪な労働条件・生活条件のもとで短命を強いられていることが明らかになった。
労働力の損耗と世代的再生産の縮小が生じてきたし、労働者は資本主義に対する対抗勢力として自らを労働組合に組織し、また資本主義そのものに対する闘いを挑む状態が生じてきた。
- このような事態に対して、資本主義は維持しつつ、あるいは資本主義を維持するために、社会の諸分野に国家・政府が積極的に関与すべきだという主張が、19世紀初頭にかけて登場した。
ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルなどが代表であった。
彼らの立場は、新自由主義あるいは社会改良主義と称された。
- 新自由主義の立場から、産業革命がもたらした社会的諸矛盾に対して、19世紀のイギリスに典型的に見られるように、政府や支配層や中流層などが上からも積極的に介入した。
この段階の保健・医療を近代と位置づけた。
第1次世界大戦とワイマール憲法
- 経済的利益の自由な追求の結果が、第1次世界大戦。戦闘員の死者900万人、負傷者2,000万人、非戦闘員の死者1,000万人。
- 第1次世界大戦の最中の1917年に、世界最初の社会主義政権がロシアで成立した。
ソビエト政権は、1918年に医療と薬品の無料化をはじめとする、一連の労働者・農民の生活保障に着手した。
- 戦敗国のドイツでは、ソビエトの影響を受けて労働運動が高揚し、経済的権利に対する抑止力としての人権を重視する傾向が強まった。
このような状況のもとで、ザクセン州のワイマールにおいて国民議会が開かれ1919年8月11日にドイツ国憲法が成立した。
資本主義国の憲法としては民主的性格の強いもの。
- 基本的人権、とくに生存権を規定したのが第151条である。
「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。
この限界内で、個人の経済的自由は、確保されなければならない」という規定であった。
ここでは、明らかに「人間たるに値する生活」という権利を、経済的自由という権利の上に置いている。
- 社会保障の権利については第161条が規定している。
「健康および労働能力を維持し、母性を保護し、かつ、老齢、虚弱および、生活の転変にそなえるために、ライヒは、被保険者の適切な協力のもとに、包括的保険制度を設ける」
現代の医療・科学と人権
- 2つの世界大戦を踏まえた現代医療
- 世界人権宣言
- アルマ・アタからリガへ――住民の積極的参加
- 現代の保健・医療の方法――住民参加の定式化
- 医学実験に関する取り決め――ヘルシンキ宣言など
- あらためて「生存権」「人格権」を胸に刻む
- 「生存を基礎とする人格権が公法 ,私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上,本件訴訟においても よっ て立つべき解釈上の指針である」 。
- 「個人の生命,身体,精神及び生活に関する利益は,各人の人格に本質的なものであって,その総体が人格権であるということができる。
人格権は憲法上の権利であり( 1 3 条,2 5 条)、 また人の生命を基礎とするも のであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを 超える価値を他に見出すことはできない」
- 人間の尊厳:
生命の尊厳、個人の尊厳、人間が人間を道具として利用してはいけないという道具性の否定
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