【ちょっと一息】
コラム① P14
コラム② P17
コラム③ P19
コラム④ P21
コラム⑤ P25
コラム⑥ P45
コラム⑦ P59
コラム⑧ P99
この本をお求めの方は発行者の治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟塩釜支部までご連絡ください。
頒価 ¥1,000(税込)
最近、「“たけくらべ”に見るジェンダー」(虫明喜美 東北大学講師)を聴講した。受験のために「たけくらべ」を読んだことがあったかな?という微かな記憶しかなかったために、文庫本を新たに購入して一緒に収められていた「にごりえ」「大つごもり」「十三夜」「わかれ道」なども読んでみた。ついでに日記を分析した「樋口夏子の肖像」(杉山武子)にも目を通してみた。
結論として感じたことは、樋口一葉は「人間の尊厳を生活の中で実現するには、もてる者から借金をしマクっても恥じることはない」「もてる者が貧しき者を助けるのは当たり前だ」つまり、「“健康で文化的な生活を社会が保障する”のは人間社会として当然である」という思想を、明治中ごろの天皇の絶対的支配国家の形成期に身を以って行動し、主張したのではないか。というのが一つの結論である。
いかがわしい事業で金儲けをしている男に近づいて「俺の女になれ」と言われ、憤然と拒否しつつも金だけは借りてくる。額が少ないと憤って日記に認める。毎日、金の算段に追われ「米びつに米がなくなって」ようやく和歌の師匠から借り出した2円で、その日の夜 妹くにと女義太夫を楽しみに行くなど堂々たるものである。まさに“文化的な最低限の生活”を金儲けした男から融通させることに恥じらうどころか権利でもあるかのように日記に記しているようだ(杉山武子)。 作品に登場する男にはまともな男がいないのも共通している。絶対的天皇制、強い家父長制の社会では、男は時の権力と2重映しであったと考えると、一葉の時の権力に対する否定的思想が表現されていると考えるのはうがちすぎだろうか。社会的には、鉱山の労働争議、小作争議、米騒動が全国的に社会を動かしつつある時であった。
このように考えると、樋口一葉を「日本文学史上の古典と近代文学の橋渡し者」という評価に止めるのは、極めて不十分であると言いたい。一葉を、今日の人権の視点から捉え直した再評価がされることを望む。憲法9条と25条が人びとの豊かな生活と人生を支える両輪として広く意識されてきた時に、そのルーツを探る作業の一つとして、樋口一葉をも視野に入れたい。(村口至)
坂総合病院(塩釜市)は塩釜地区2市3町と仙台市東部地区を診療圏とし、急性期から在宅までの地域医療を幅広く担う。礎を築いたのが初代院長で、前身の「私立塩釜病院」を開設した坂定義(1866~1937年)だ。
戊辰戦争で処刑された仙台藩重臣、坂英力(えいりき)の五男として生まれた。恵まれた生活ではなかったが、軍医となった兄の琢治の後を追うように医師となった。
東京・日本橋で開業医などをした後、軍医となり日清、日露戦争に従軍。弘前勤務時代には八甲田雪中行軍遭難事件が起き、救援隊の指揮を執った。陸軍新発田衛戍(えいじゅ)病院(現新潟県立新発田病院)の院長を最後に退官し、仙台に戻った。
定義は塩釜で仮診療所を開くなどした後、現在の病院敷地に私立塩釜病院を建設。その際に建てられた「紀念之碑」が、現在の病院に残る。住民は親しみを込め、塩釜病院を「坂さん」と呼んだという。 定義は白馬に乗って往診したと伝わる。坂総合病院名誉院長の村口至さん(80)は「貧しい家では往診料を取らず、座布団の下にお金を置いてきたという話を聞いた。私が就職した当時は『医者屋にならず』という初代院長の言葉を先輩から教えられた」と明かす。 定義は近隣4小学校の校医を務めたが、報酬を学校に寄付したため、オルガンなどの備品購入に充てられたという。伝染病隔離病舎の医療を引き受け、コレラ患者の対応にも当たった。1929年から4年間は宮城郡医師会長を務めた。 塩釜町社会事業協会の設立発起人となり、後に会長も務めた。協会は子ども対象の無料診断「児童・幼児健康相談」や、貧困女性のための助産事業「出産相扶組合」を実施した。
琢治と定義を研究する仙台白百合女子大非常勤講師(近現代女性史)の佐藤和賀子さん(69)は「社会活動の関心を女性や子どもにも向けた医師だった」と強調する。 定義は71歳で死去し、琢治の五男、猶興(なおき)が病院を継いだ。猶興は病院名を坂病院に変え、財団法人宮城厚生協会を設立。現在は公益財団法人宮城厚生協会となった。坂総合病院をはじめ4病院7診療所などを運営する県内最大の民間医療法人だ。 9代目となる現院長の冨山陽介さん(59)は「急な病気などで困っている人が最初に思い浮かべる病院でありたい。住民と同じ視点に立ち、地域医療を支える役割を果たしていく」と語る。 (塩釜支局・高橋公彦)
坂総合病院(公益財団法人)は、創立100余年を迎え、今日では、在宅医療から救急医療まで地域での基幹病院としての役割を担うまでになっています。
単なる医療機関にとどまらず、医療の中での貧困差別と向き合い社会保障制度改善や、命を脅かすものと闘う平和運動など幅広く住みよい地域や国造り運動などにも取り組んできました。
この運動は、当病院を起点に県内にも広く医療と福祉運動を広げる役割をも発揮してきました。
運動の広がりとその規模が大きくなるにつれ、また今日の医療技術の専門性の強い発展は、ともすれば、参加職員の視野を狭め、その苦労の社会的意味を見失いがちにさせます。
当院は、戦後医療の民主的再構築を目指す2代目院長坂猶興先生と志を同じくする人々によって、財団法人宮城厚生協会を立ち上げ、全国民主医療連合会の結成にも参加して今日への発展があり、それらについてはすでに記録が残されていますが、当院の創設にかかわった医師については、つまびらかにされていませんでした。
今回、佐藤和賀子氏という地域史・女性史研究者のお力をいただき、創設者坂定義先生の業績を明らかにすることができました。
表題の「医者屋にならず」という文言は、私も入職時に先輩から耳にしていました。
当時開業すると、山の一つや二つ持てるという時代に、創設者定義先生は、貧家に往診に行くと、座布団の下に小銭を置いてきたというヒューマニストであったという話でした。
本書により、定義先生が、日常の医療だけでなく、伝染病病棟を引き受けたり、青少年教育のための道場を開いたり、婦人の職業訓練場や保育所まで企画に参加していたことなど、今日の私どもが到達した医療から福祉までの広い視野での事業を展開していたことが明らかとなり、今日の坂総合病院の事業との連続性を示唆してくれています。
同時に、大正元年当時病院の建設にあたって地域の人々180名の人々が、建設資材提供、労働力(「石碑」では労務提供)、資金提供などで結集したのはなぜなのか、などについても解き明かしてくれるかも興味深い点です。
本書発行:坂総合病院、価格:1,000円+消費税、取り扱い:坂総合病院医局、嶋屋書店(本塩釜駅前)、ブックスなにわ多賀城店
自治体研究所出版の月刊雑誌「住民と自治」2020年1月号に掲載
本書は、3.11を体験した保健師が著した後輩へのメッセージであり、平常時及び災害時における保健師の活動の有り様を問うたものです。本書は、著者が複数人であるにも拘らず全編を通してその意図の一貫性と、伝承すべきまた主張すべきとした事項は鮮明です。
3.11午後2時46分、日本地震観測史上最大規模の巨大地震(9.0マグニチュード)とそれに誘引された平成三陸巨大津波の発生以来、私は最大被災地石巻の湊小学校避難所の現地対策本部長を務めました。心したことは、避難所運営の三大原則(私が名付けたものですが)―平等性・迅速性・透明性―の実践でした。第一原則は平等です。故に、避難所をその地域の支援センターとして位置付け、避難所避難者だけでなく在宅避難者(被災し壊れ果てている居宅に避難している避難者)にも、食料品や生活必需品を渡し切ることなのです。同じ被災者ですが、避難所からはどこにどれだけの在宅避難者がいるか、どんな困難に陥っているのか、なかなか見えないのです。3月末ころでしたでしょうか、保健師の方々が地域を回っているとの情報が飛び込んできました。「これだ」「今だ」と確信し市の避難所担当部局にその情報提供を依頼したところ、「個人情報保護の観点からそれは不可能」との回答が来ました。「なにー!だったらそれはそれでいい。しかし在宅避難者へ今日のこの食糧を、どうやってしっかり渡すか、その手立てを示すべきだし、渡す責務は行政にある」と激しいやり取りをしたことを
昨日のことのように思い出します。
本書を読んで、改めて被災者の心に寄り添う活動を行っていた保健師はじめ自治体職員の奮闘ぶりを思い起こします。そして、保健師の方々の活動の困難の原因に、1980年代からの行革や平成の大合併により、あるいは地域保健法施行により『地域担当制による業務担当制』へと地域保健活動が変化させられていった等の事実があり、だからこそ今保健師の健診や家庭訪問、健康教育を通して住民の顔が見える活動そして地域の人的資源・施設的資源を把握し繋ぐという、保健師活動の原点復帰の重要さの指摘は極めて示唆に富んでいます。
故に、第1に保健師の方々には災害時の活動に生かすことができる平常時の活動とは何かの視点を持って、第2に行政関係者には平常時も災害時も含めた保健師活動の全体像を理解しようとする視点を持って、必読の本と位置付けていただきたいと思います。
災害時、自衛隊や消防団や医療団の活躍は賛歌されますが、同じ医療関係でありながらも保健師の地を這う活動に光を浴びさせることは出来ていません。憲法25条第2項に規定する生存権に係る国の責務を第一線で果たそうとしている保健師の方々への敬意をこめて、多くの市民の皆様にも一読をお薦めいたします。
その際は、第5章の118㌻から150㌻までを最初に読む方法も良いと思われます。保健師という職業名は知られているけれど、その職務内容はよく分からないのがむしろ一般的かと思われ、保健師の発展史を理解することからスタートするのも一考かと思いますので。
評者 庄司慈明
(税理士、当時石巻市議・湊小学校避難所責任者)
3・11からもうすぐ8年です。
これまでの宮城県沿岸部の人々のくらしは、地震・津波の体験と学びの繰り返しでありました。
この地の歴史をたどると、「また、必ず、遠からず、津波はくる」という警鐘をならしているかのようです。
本書は、3.11を体験した保健師が著した後輩へのメッセージです。
3.11時の被災現地のあちらこちらで、保健師の活動のあり方が問われました。
そこで、本書では3.11発災時の現地がどのような状況にあり、どのような活動が求められたかを振り返り、今後も続く3.11からの復興過程で求められる地域保健活動のあり方を検討し綴ったものです。
保健師の発展史は、本来の活動とは何かを問い続ける歴史でありました。
本書での保健師の本来の活動とは「橋本の「地域保健活動」を原点とする地域担当制に基づき健康課題を解決するために地域を単位として地域の人々と協働して行う活動」です。
]これは、第二次世界戦後の復興過程において実践され体系化された活動方法です。
3.11時には、多くの自治体では、業務担当制による事業展開が優先され、保健師本来の地域担当制に基づく地域保健活動は実践されにくい状況にありました。
これは、1980年代からの一連の国による行財政改革や社会基礎構造改革を推進する制度改革に対応し増大する事業実施とその効率性が求められ、時間と労力を要する地域保健活動が、業務分担制を主軸とする活動にシフトしていったからです。
その結果、保健師の本来の地域担当に基づき地域を単位とする地域保健活動の実践は、大幅に減少してきたのです。
さらに、これに拍車をかけたのが、2000年代に進められた平成の大合併でした。
合併は自治体数を減少させ、1自治体の人口と面積を大規模化し、広域化しました。
これに伴い、保健師の受け持つ地域も広範囲になり、地域に出かけて行う地域保健活動の減少と相俟って、保健師の姿は地域住民から見えにくいものとなって行きました。
こうして、かつて、地域の人々が、町役場に「おらほの保健師さん」といって訪ねてくる光景も、ほとんど見られなくなってしまっていたのです。
3.11は、このような状況のもとに起こりました。
本書の執筆者の4人の保健師たちは、3.11時の教訓を記録に残すために村口至医師に招集されたものです。
いずれも3.11前後に宮城県内の自治体を退職した者ですが、その後も各自それぞれの活動を継続してきました。