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【講演会・フォーラム】

【日野秀逸先生の医学概論・・連続5回】

医療倫理の展開を訪ねる旅- 日野秀逸
医師、医学博士(大阪大学)、経済学博士(東北大学)

【第3回】

近代民主主義と患者の権利―知る権利や自己決定の主張

○ ヒポクラテス の言う二つの視点:「患者の為に」と「害はなさない」

(1)
「患者のために」が、患者個人から複数の当事者に。
さらに社会が当事者になる(社会保険、社会保障)。
(2)
「害をなさない」では、何が害なのか、誰の害なのか、が問われる。

○ 今回のあらすじ

(1)
絶対王政という時期
(2)
この時期に、国民概念の登場。国民の数と健康状態が絶対君 主の資産内容に。
(3)
近代市民革命(ブルジョア民主主義革命)のなかで、健康・生命は個人のものであり、個人が決定するものだという、健康の自己主権論が登場。
(4)
自己主権は、資本主義の進行のなかで、一方では自己責任論となり、他方では国家責任論(行政責任論)となった。
(5)
「人間の健康」という問題提起と民主主義の関わり
(6)
医学の展開――イタリアから世界各地へ

1. 初期資本主義時代と医療

(1) 絶対王政:
① 絶対王政:
経済的実力を備えてきたブルジョアジーが、最も勢力の強い封建君主に資金を貢ぎ、その代わりに個々の領主の恣意的支配から保護してもらうという、言わば過渡的・妥協的な政治体制。
一応の中央集権的国家体制が成立
② 人口は国王の資産の一つ
絶対王政の課題:対外的には、大西洋やアフリカ回りの航路が開かれた大航海時代の制海権をめぐる争いや、植民地をめぐる争いという形で、他の絶対王政の国々との勢力争いが登場してきた。
→国全体という大規模なレベルで国力を把握することが必要に
国内政策的に見ても、国力増強・富国強兵策を進めるには、人口の量と質の把握は不可欠であった。
(2) ドイツの場合-領邦国家の分立
イギリス、フランス、スペインと違って、同じ君主国とは言っても、ドイツは中世末期においてもいぜんとして100以上の領邦に分かれていた。
ルター等の宗教改革勢力が、ローマ教皇と戦うために領邦諸侯に協力を求め、その見返りに1人の絶対君主にではなく、諸侯に世俗の支配と併せてプロテスタントの教会組織を支配する権限まで与えることになったという事情が働いている。
ドイツの政治体制は、封建的割拠制を温存したままの「諸侯の絶対主義」という独特なものになった。
政治と宗教の支配権を握った諸侯は、政治・行政制度を維持するために官吏と軍隊を必要としたし、その財源としての人口を必要とした。
(3) 官房学の登場
ドイツにおける官房学:ドイツの領邦君主の資産評価の学問であった。
要は国力の把握:国力を認識し、政策立案や行政に活用することが、領邦国家の官僚にとっての任務となった。そのための知識体系が官房学。
官房学と人口:国の繁栄は結局は人口の増大として示される。人口を増やすためには国民の健康に配慮しなければならない。
君主の資産目録の重要項目が人口であり、人口を増やすことは、兵隊と租税負担者を増やすことであり、官房学・国情論にあっては王の家計と国家の財政は未分化であったから、結局は君主の資産を増やすこと、すなわち国家の力を増すことと捉えた。
官房学は、領邦国家の政府が行うべき保健事業を提起した。
基本:社会防衛と富国強兵と人口増大
限界:領邦国家の役に立つ人口集団のみを対象に。例えば、子どもを生むことが出来る年齢の女性。労働力、兵力になることができる男性。
(4) 領邦国家が行うべき保健事業
産婆の育成とその業務の監督
孤児の養育
政府から報酬をえて公医として働く内科医と外科医の任命
ペストをはじめとする伝染病の予防
タバコ、アルコール飲料の乱用の監視
食品衛生監視
市街地の清掃と排水
病院設置
貧民救済
(5) 国王の侍医と国家の侍医
絶対王政の時代、多くの医師が社会政策(経済学)に関わる。 
・コンリングは王の侍医、フランソア・ケネーやイギリスのウィリアム・ペティも医師
経済と生理:フランス語で「エコノミー」は経済。また「全体の調和」という意味。
生理も「エコノミー」
。「朕の生理」は「国家の経済(エコノミー)」。
君主の生理の管理者は、君主の悩みが国家の経済に由来するならば、国家の経済に関心を払わざるをえない
ケネー(1694-1774)はウィリアム・ハーヴェイの『血液循環の理論』(1628)から深い影響を受けた(ハーヴェイ自身も、イギリスのチャールズ1世の侍医)。
ケネーは『血液循環の理論』を経済循環に適用した。
ケネーは動物の生理に関する研究も行ったが、それは「エコノミー・アニマーユ」(動物生理)と表現された。
ケネーが仕えたルイ15世時代、社会の矛盾はあちこちで噴出。
1789年のフランス革命の素地が形成されていった。
こういう時期に、絶対王政支持者のケネーは困難を経済に求め、『血液循環の理論』を国民経済に応用した。
ケネーは、経済を血液のように循環するものとして、すなわち再生産過程として捉えて、1758年に『経済表』を著した。
資本の生産過程全体を再生産過程として捉え、1つの表で説明しようとした天才的な着想であったと高く評価されている。
(6) 「政治算術」登場-ウィリアム・ペティ
多面的活動:解剖学教授、統計学、経済学、財政学、人文地理学、都市論などの創始者。
医学を社会現象の理解に適用。自然体(人体)と政治体(社会)との類比を、解剖学を方法として行う。
ペティの政治算術の特質:
究極の目的を「人民・土地・資材・産業交易の真実の状態」の認識、突き詰めていえば、幼年期の資本主義社会における富の実態の認識に置いた。
一国の社会的生産力に着目し、社会経済現象をすぐれて数量的に観察し、その数量的諸関連を媒介としてこの社会を支配する質的法則性を発見した。
質的把握の基礎には、人間の労働が価値を産む源であるという労働価値説が、萌芽的ではあるが存在していた

2. 市民革命と保健・医療

(1) 所有権・財産権と生命・身体・健康
封建時代の生命・身体・健康:武士、領民(農民や町人)の生命・身体は領主の所有物
「切り捨てごめん」、「武士道とは死ぬことと見つけたり」
市民革命と財産権:ブルジョアジーは財産権・所有権の確立を中心的な要求として封建勢力を打倒し、資本主義経済の発展に道を開く政治的な変革を行った。これが近代市民革命
自らの所有権の確立を求める要求は、自らの生命・身体・健康が自己の所有であるという主張と直接につながった。
資本主義成立の2大条件
資本と資本家の登場(商業資本や金貸資本から成長)
労働力の売り手である労働者の存在(身分的に自由+生産手段・生活手段からも「自由」)→労働力を売る以外に生活できない階級
革命後の政府は①と②を、権力を動員して、大規模に推進した
(2) ジョン・ロックと健康自己主権論
市民革命の理論的総括者:最初の市民革命はオランダ、影響力の大きいのはイギリス。
1640年に始まる清教徒(ピューリタン)革命から、1688年の名誉革命と称する、王政勢力と議会勢力の一種の妥協による収束まで、内乱を含む長期の経過をたどった。
市民革命の最後の段階で、理論的・思想的に最も大きな影響を与えたのがジョン・ロック(1632-1704)。
彼は外科医。
健康自己主権論:自己の生命・身体・健康に関する事柄は、個々人の主権に属する事柄であり、他人に命令されるものではないという主張。
市民社会の原理の1つ。
財産権と関わって登場した論理。
自己決定の思想で、生命・健康における主権在民論
「HPHは、職員・共同組織・地域住民が、『健康の自己主権』を実現し、『疾病の自己責任』論を克服していくことにつながるものです」
(全日本民医連第40期第2回評議員会方針(案)、2013年1月19日)

*健康増進活動拠点病院(Health promoting hospitals and services、HPH)

(3) 健康の自己主権の2つの領域
主権者として健康問題に関わる:健康の自己主権論からは、第1に、自らが主権者として、主体的に健康の形成・促進・維持・回復に関わるという方向が出てくる。
この方向の個人的実践は、近代市民社会、すなわち資本主義社会においては、時間と資金を持つ裕福な階級・階層にしか実現できないものであった。
集団的実践は、ベラーズなどの思想を経て、具体的には労働組合や協同組合を通じて人々の協同の取り組みとして追求された。
行政の主権者として健康問題に関わる:健康の自己主権論から出てくるもう1つの方向は、政府に対して国民の健康の保全を要求するものである。
この根拠は国民による政府への信託内容に求められる。
憲法25条である。健康の行政責任論といってもよい。
(4) 自己主権論から自己責任論への変質
ロックなどのブルジョアジーは、財産権と両立する身体の自己所有論に基づいて、健康の自己主権論を提起した。
ブルジョアジー、およびブルジョアジーと事業面でも婚姻関係でも深く結びついた貴族や富農たちは、保健・医療を含む生活全体について、個人で責任をとるべきだという論理に傾斜
ブルジョアジーや貴族・富農たちは、他の人民諸階級・階層の犠牲の上に自らの生活を自分で成り立たせることができた。
生活の自己責任論
主権在民という市民革命の思想は、個々人が主権者として振る舞うことを要求するし、自立的生活態度を要求する。
しかし、ブルジョアジーが提起した近代市民社会の約束事は、生命・健康をはじめとする国民の生活において根本的な重要性を持つ事柄の保全を、政府に信託するというものであった。
この意味では、生活の自己責任論は、まずはブルジョアジーが、市民社会の約束事すなわち近代民主主義の担い手の座から退いたことを意味する
自己責任論は労働者階級などの、政治的に抑圧され経済的に弱い立場の人々にとっては、実際問題として成り立たない議論。
工場法によって労働時間に対する一定の規制がなされるまでは、イギリスにおいても1日の労働時間は16時間程度が普通。長時間労働と低賃金で、その日その日の暮らしを立てるだけで精いっぱいの人々に、健康や教育の自己責任論はとうてい成り立たない。
個人ではなく、人々が共同・協力して健康を守ろうと言う方向が生まれた。このことは、近代民主主義の守り手が、労働組合運動や協同組合運動によって鍛えられた労働者階級に移ったことを意味した。
(5) 自己主権論・行政責任論が国際的常識
自己主権論の展開:政府の権力の主権者が国民。国民の生命・健康が個人の所有物として政府によって保全されるべき基本権に含まれる。
政府が国民の生命・健康に対して責任を負うのは当然
この方向は長期にわたる労働者階級をはじめとする社会的運動によって、少しずつ実現されていった
生存権の認定:基本的人権の内容として、全ての人々の健康を中央・地方の政府が責任を持って保障すべきだという議論は、1918年「ワイマール憲法」を嚆矢とし、第2次世界大戦後に国際的に承認されるようになった
25条制定過程:1946年の国会で、社会党が「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という第1項を提案した。
第2項では、政府原案の「法律は、生活のすべての面について、社会の福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進のために立案されなければならない」という文言が、立法のみでなく、行政、司法をも包括する「国は…‥努めなければならない」という文言に改められて成立した。
憲法第25条からみても、憲法が押しつけだという議論は成り立たない。
日本国民側からの提案を踏まえて、憲法制定のための日本の国会で議論をして、多くの補強がなされて、日本国憲法ができた。
(6) 「人間の健康」と民主主義
① 自然な状態としての健康
ブルジョア民主主義の勃興期には、人間にふさわしい健康とはいかなるものなのか、という問いかけがなされた。
イギリスではロックたちによって、フランスではジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)たちが、ロシアではドブロリューボフ(1836-1861)たちが、この問題を提起した。
② 封建社会は不自然:
生まれながらにして身分・職業が固定され、各人の可能性が著しく制約されている封建社会を不自然なものとして批判し、自然な状態に戻そうとするのが市民革命の立場。
この立場から、心身の自然な状態が健康であり、人工的な不自然な抑圧から解放され、人間の可能性を発揮できる心身の状態が人間の健康と理解された。
(7) 人間的健康への着目
① 「人間の健康」
教育に関わる諸論文の中で「人間の健康」という問題を提起した。
「健康が抽象的なかたちで取りあげられるものならば、何も人間を相手にする必要さえもないのであって、動物を例として引き合いに出せばいい。
たとえば象やライオン、あるいは雄牛のと比べても、あなた方の身体でより強くより健康な部分などあろうか」
(「知的活動及び道徳的活動と結びついた人間の身体的発達」海老原遥訳、『革命的民主主義教育論2』所収、明治図書出版、1980年、pp.181-182)
② 身体全体の調和ある発達
  • 「一言でいえば、健康ということをたんなる身体のうわべの良好状態だけと取ることはできないのであって、一般に、身体全体の自然で調和のとれた発達、および身体のあらゆる機能の完全な活動だと理解する必要がある」(p.180)
  • 「他の面を犠牲にして何か一つの側面だけがあまりにも強く発達しているような身体も、完全に健康だとは言えないのである。
    こうして、脳の機能の発達が他のいっさいを押しのけてしまっているような身体も、不正常な、病的な発達をとげているのである。
    まったく同様に、強化された筋肉の活動のおかげで、神経組織とくに脳の発達が制限され抑圧されているような身体の発達も不正常である」(同上:p.188)
  • 結論:
    「人間にとって必要なのは、肉体の発達が精神の発達を妨げることなく、それを促進するような人間的健康である
    (同上:p.188-189)
③ 「人間の健康」
夭折彼はフォイエルバッハとヘーゲルの影響を受け、唯物論に立脚し、しかも彼自身が批判している「粗野な唯物論」ではなく、人間や社会を有機的連関において把握する弁証法的な唯物論の視点を随所に示している。
彼はここに示した視点をさらに展開することなく、25歳で結核のために死亡。
(8) 人間的生命活動ができる状態
ドブロリューボフが提起した動物的健康と人間的健康の区別に関する考察は、実はマルクスによって『経済学・哲学草稿』(1844年)ですでになされていた。(マルクスの生前には出版されず、したがってドブロリューボフも知りえなかった)
人間的諸活動(マルクスは人間の類的生命活動と表現)が可能な状態が、人間的健康。マルクスは、人間と動物との違いを深く考えた。
エピクロスを手がかりに、人間の健康に関しても簡単なスケッチをしている。
人間の普遍的な生命活動(人間独自の生き方)を類的活動をとして定義し、人間の類的活動が損なわれた状態を病気と把握した。
人間にふさわしい健康、人間の健康は、動物一般の健康を土台に置きながらも、人間独自のものとしてとらえるならば、自然を変え、社会を変え、自分自身を変え、そして人生を楽しむという四つの人間独自の活動ができるような身体的、精神的な、あるいは社会的な状態のことであるととらえることができる。

3. 医学の展開――イタリアから世界各地へ

北部イタリア→ライデン→ウィーン・ベルリン・パリ→エジンバラ→アメリカ東海岸
ライデン大学が医学のメッカに
医学の中心は、17世紀にイタリアからオランダとくにライデン大学に移行。
イタリア・ルネサンスの衰退。地中海航路ではなく大西洋、インド洋を股に掛けた大航海時代に商業・貿易の中心を担ったのがオランダ。ライデンは臨床(ベッドサイド)医学教育で有名。
ライデンからウィーン(病理解剖)、パリ(診断法・精神医学・免疫学・病院の医学)、ベルリン(病理学・細菌学・研究室の医学)へ(ライデン大学はプロテスタントでないと教授になれなかった)→日本へも
ライデンからエディンバラへ(臨床医学)→アメリカ東海岸へ
「病床医学」(Bed-side medicine)→「病院の医学」(Hospital medicine)→「研究室の医学」(Laboratory medicine)
参考文献
日本医療福祉生協連の出版物
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