東北地方医療・福祉総合研究所

【発行・出版・掲載】

樋口一葉と憲法25条

「いのちとくらし総合研究所」機関誌巻頭言に寄稿

 最近、「“たけくらべ”に見るジェンダー」(虫明喜美 東北大学講師)を聴講した。受験のために「たけくらべ」を読んだことがあったかな?という微かな記憶しかなかったために、文庫本を新たに購入して一緒に収められていた「にごりえ」「大つごもり」「十三夜」「わかれ道」なども読んでみた。ついでに日記を分析した「樋口夏子の肖像」(杉山武子)にも目を通してみた。
 結論として感じたことは、樋口一葉は「人間の尊厳を生活の中で実現するには、もてる者から借金をしマクっても恥じることはない」「もてる者が貧しき者を助けるのは当たり前だ」つまり、「“健康で文化的な生活を社会が保障する”のは人間社会として当然である」という思想を、明治中ごろの天皇の絶対的支配国家の形成期に身を以って行動し、主張したのではないか。というのが一つの結論である。
 いかがわしい事業で金儲けをしている男に近づいて「俺の女になれ」と言われ、憤然と拒否しつつも金だけは借りてくる。額が少ないと憤って日記に認める。毎日、金の算段に追われ「米びつに米がなくなって」ようやく和歌の師匠から借り出した2円で、その日の夜 妹くにと女義太夫を楽しみに行くなど堂々たるものである。まさに“文化的な最低限の生活”を金儲けした男から融通させることに恥じらうどころか権利でもあるかのように日記に記しているようだ(杉山武子)。 作品に登場する男にはまともな男がいないのも共通している。絶対的天皇制、強い家父長制の社会では、男は時の権力と2重映しであったと考えると、一葉の時の権力に対する否定的思想が表現されていると考えるのはうがちすぎだろうか。社会的には、鉱山の労働争議、小作争議、米騒動が全国的に社会を動かしつつある時であった。  このように考えると、樋口一葉を「日本文学史上の古典と近代文学の橋渡し者」という評価に止めるのは、極めて不十分であると言いたい。一葉を、今日の人権の視点から捉え直した再評価がされることを望む。憲法9条と25条が人びとの豊かな生活と人生を支える両輪として広く意識されてきた時に、そのルーツを探る作業の一つとして、樋口一葉をも視野に入れたい。(村口至)

幅広い地域医療 礎築く
坂定義(さか・さだよし)―坂総合病院初代院長―(塩釜市)

掲載:河北新報 2020年8月7日(金)

【全文】

 坂総合病院(塩釜市)は塩釜地区2市3町と仙台市東部地区を診療圏とし、急性期から在宅までの地域医療を幅広く担う。礎を築いたのが初代院長で、前身の「私立塩釜病院」を開設した坂定義(1866~1937年)だ。
 戊辰戦争で処刑された仙台藩重臣、坂英力(えいりき)の五男として生まれた。恵まれた生活ではなかったが、軍医となった兄の琢治の後を追うように医師となった。
 東京・日本橋で開業医などをした後、軍医となり日清、日露戦争に従軍。弘前勤務時代には八甲田雪中行軍遭難事件が起き、救援隊の指揮を執った。陸軍新発田衛戍(えいじゅ)病院(現新潟県立新発田病院)の院長を最後に退官し、仙台に戻った。


 定義は塩釜で仮診療所を開くなどした後、現在の病院敷地に私立塩釜病院を建設。その際に建てられた「紀念之碑」が、現在の病院に残る。住民は親しみを込め、塩釜病院を「坂さん」と呼んだという。  定義は白馬に乗って往診したと伝わる。坂総合病院名誉院長の村口至さん(80)は「貧しい家では往診料を取らず、座布団の下にお金を置いてきたという話を聞いた。私が就職した当時は『医者屋にならず』という初代院長の言葉を先輩から教えられた」と明かす。  定義は近隣4小学校の校医を務めたが、報酬を学校に寄付したため、オルガンなどの備品購入に充てられたという。伝染病隔離病舎の医療を引き受け、コレラ患者の対応にも当たった。1929年から4年間は宮城郡医師会長を務めた。  塩釜町社会事業協会の設立発起人となり、後に会長も務めた。協会は子ども対象の無料診断「児童・幼児健康相談」や、貧困女性のための助産事業「出産相扶組合」を実施した。


 琢治と定義を研究する仙台白百合女子大非常勤講師(近現代女性史)の佐藤和賀子さん(69)は「社会活動の関心を女性や子どもにも向けた医師だった」と強調する。  定義は71歳で死去し、琢治の五男、猶興(なおき)が病院を継いだ。猶興は病院名を坂病院に変え、財団法人宮城厚生協会を設立。現在は公益財団法人宮城厚生協会となった。坂総合病院をはじめ4病院7診療所などを運営する県内最大の民間医療法人だ。  9代目となる現院長の冨山陽介さん(59)は「急な病気などで困っている人が最初に思い浮かべる病院でありたい。住民と同じ視点に立ち、地域医療を支える役割を果たしていく」と語る。 (塩釜支局・高橋公彦)

[メモ]
坂総合病院は塩釜市錦町16の5。「紀念之碑」は病院の駐車場に立つ。碑は私立塩釜病院が1912年に起工し、14年に完成したことを伝える。 建設に当たって資材を提供した住民の名前に加え、労働力を提供した地域ごとの人数が刻まれ、その数は計175人に上る。

医者屋にならずー坂総合病院初代院長 坂定義先生の生涯と業績ー

発行:公益財団法人宮城厚生協会 坂総合病院

出版紹介

坂総合病院(公益財団法人)は、創立100余年を迎え、今日では、在宅医療から救急医療まで地域での基幹病院としての役割を担うまでになっています。
単なる医療機関にとどまらず、医療の中での貧困差別と向き合い社会保障制度改善や、命を脅かすものと闘う平和運動など幅広く住みよい地域や国造り運動などにも取り組んできました。
この運動は、当病院を起点に県内にも広く医療と福祉運動を広げる役割をも発揮してきました。
 運動の広がりとその規模が大きくなるにつれ、また今日の医療技術の専門性の強い発展は、ともすれば、参加職員の視野を狭め、その苦労の社会的意味を見失いがちにさせます。
 当院は、戦後医療の民主的再構築を目指す2代目院長坂猶興先生と志を同じくする人々によって、財団法人宮城厚生協会を立ち上げ、全国民主医療連合会の結成にも参加して今日への発展があり、それらについてはすでに記録が残されていますが、当院の創設にかかわった医師については、つまびらかにされていませんでした。
 今回、佐藤和賀子氏という地域史・女性史研究者のお力をいただき、創設者坂定義先生の業績を明らかにすることができました。
 表題の「医者屋にならず」という文言は、私も入職時に先輩から耳にしていました。
当時開業すると、山の一つや二つ持てるという時代に、創設者定義先生は、貧家に往診に行くと、座布団の下に小銭を置いてきたというヒューマニストであったという話でした。
本書により、定義先生が、日常の医療だけでなく、伝染病病棟を引き受けたり、青少年教育のための道場を開いたり、婦人の職業訓練場や保育所まで企画に参加していたことなど、今日の私どもが到達した医療から福祉までの広い視野での事業を展開していたことが明らかとなり、今日の坂総合病院の事業との連続性を示唆してくれています。
 同時に、大正元年当時病院の建設にあたって地域の人々180名の人々が、建設資材提供、労働力(「石碑」では労務提供)、資金提供などで結集したのはなぜなのか、などについても解き明かしてくれるかも興味深い点です。
本書発行:坂総合病院、価格:1,000円+消費税、取り扱い:坂総合病院医局、嶋屋書店(本塩釜駅前)、ブックスなにわ多賀城店

3.11大震災と公衆衛生の再生ー宮城県の保健師のとりくみー

編著 村口至 末永カツ子
発行:自治体研究社

推薦文(書評)

自治体研究所出版の月刊雑誌「住民と自治」2020年1月号に掲載

 本書は、3.11を体験した保健師が著した後輩へのメッセージであり、平常時及び災害時における保健師の活動の有り様を問うたものです。本書は、著者が複数人であるにも拘らず全編を通してその意図の一貫性と、伝承すべきまた主張すべきとした事項は鮮明です。
3.11午後2時46分、日本地震観測史上最大規模の巨大地震(9.0マグニチュード)とそれに誘引された平成三陸巨大津波の発生以来、私は最大被災地石巻の湊小学校避難所の現地対策本部長を務めました。心したことは、避難所運営の三大原則(私が名付けたものですが)―平等性・迅速性・透明性―の実践でした。第一原則は平等です。故に、避難所をその地域の支援センターとして位置付け、避難所避難者だけでなく在宅避難者(被災し壊れ果てている居宅に避難している避難者)にも、食料品や生活必需品を渡し切ることなのです。同じ被災者ですが、避難所からはどこにどれだけの在宅避難者がいるか、どんな困難に陥っているのか、なかなか見えないのです。3月末ころでしたでしょうか、保健師の方々が地域を回っているとの情報が飛び込んできました。「これだ」「今だ」と確信し市の避難所担当部局にその情報提供を依頼したところ、「個人情報保護の観点からそれは不可能」との回答が来ました。「なにー!だったらそれはそれでいい。しかし在宅避難者へ今日のこの食糧を、どうやってしっかり渡すか、その手立てを示すべきだし、渡す責務は行政にある」と激しいやり取りをしたことを 昨日のことのように思い出します。
本書を読んで、改めて被災者の心に寄り添う活動を行っていた保健師はじめ自治体職員の奮闘ぶりを思い起こします。そして、保健師の方々の活動の困難の原因に、1980年代からの行革や平成の大合併により、あるいは地域保健法施行により『地域担当制による業務担当制』へと地域保健活動が変化させられていった等の事実があり、だからこそ今保健師の健診や家庭訪問、健康教育を通して住民の顔が見える活動そして地域の人的資源・施設的資源を把握し繋ぐという、保健師活動の原点復帰の重要さの指摘は極めて示唆に富んでいます。
故に、第1に保健師の方々には災害時の活動に生かすことができる平常時の活動とは何かの視点を持って、第2に行政関係者には平常時も災害時も含めた保健師活動の全体像を理解しようとする視点を持って、必読の本と位置付けていただきたいと思います。
災害時、自衛隊や消防団や医療団の活躍は賛歌されますが、同じ医療関係でありながらも保健師の地を這う活動に光を浴びさせることは出来ていません。憲法25条第2項に規定する生存権に係る国の責務を第一線で果たそうとしている保健師の方々への敬意をこめて、多くの市民の皆様にも一読をお薦めいたします。
その際は、第5章の118㌻から150㌻までを最初に読む方法も良いと思われます。保健師という職業名は知られているけれど、その職務内容はよく分からないのがむしろ一般的かと思われ、保健師の発展史を理解することからスタートするのも一考かと思いますので。
評者 庄司慈明
(税理士、当時石巻市議・湊小学校避難所責任者)

はじめに  末永カツ子(元東北大学教授)

3・11からもうすぐ8年です。
これまでの宮城県沿岸部の人々のくらしは、地震・津波の体験と学びの繰り返しでありました。
この地の歴史をたどると、「また、必ず、遠からず、津波はくる」という警鐘をならしているかのようです。 本書は、3.11を体験した保健師が著した後輩へのメッセージです。
3.11時の被災現地のあちらこちらで、保健師の活動のあり方が問われました。
そこで、本書では3.11発災時の現地がどのような状況にあり、どのような活動が求められたかを振り返り、今後も続く3.11からの復興過程で求められる地域保健活動のあり方を検討し綴ったものです。
保健師の発展史は、本来の活動とは何かを問い続ける歴史でありました。
本書での保健師の本来の活動とは「橋本の「地域保健活動」を原点とする地域担当制に基づき健康課題を解決するために地域を単位として地域の人々と協働して行う活動」です。
]これは、第二次世界戦後の復興過程において実践され体系化された活動方法です。
3.11時には、多くの自治体では、業務担当制による事業展開が優先され、保健師本来の地域担当制に基づく地域保健活動は実践されにくい状況にありました。
これは、1980年代からの一連の国による行財政改革や社会基礎構造改革を推進する制度改革に対応し増大する事業実施とその効率性が求められ、時間と労力を要する地域保健活動が、業務分担制を主軸とする活動にシフトしていったからです。
その結果、保健師の本来の地域担当に基づき地域を単位とする地域保健活動の実践は、大幅に減少してきたのです。
さらに、これに拍車をかけたのが、2000年代に進められた平成の大合併でした。
合併は自治体数を減少させ、1自治体の人口と面積を大規模化し、広域化しました。
これに伴い、保健師の受け持つ地域も広範囲になり、地域に出かけて行う地域保健活動の減少と相俟って、保健師の姿は地域住民から見えにくいものとなって行きました。
こうして、かつて、地域の人々が、町役場に「おらほの保健師さん」といって訪ねてくる光景も、ほとんど見られなくなってしまっていたのです。
3.11は、このような状況のもとに起こりました。

本書の執筆者の4人の保健師たちは、3.11時の教訓を記録に残すために村口至医師に招集されたものです。
いずれも3.11前後に宮城県内の自治体を退職した者ですが、その後も各自それぞれの活動を継続してきました。

第1章 伊藤慶子(元石巻市保健師)
伊藤は、3.11時には、津波被害の大きな被災自治体であった石巻市の統括保健師でした。
この章では、「津波被災地保健師100人の声」プロジェクトを立ち上げ、県内保健師や村口医師らともに実施した、沿岸部保健師たちへのアンケート調査の報告書に基づき、 この結果と現役時代の自らの保健師活動や3.11の体験、合併後本庁機能が強まる中での総合支所での活動などに照らし合わせ保健師の活動において何が大切であるかについて述べています。
第2章 臼井玲子(元宮城県保健師)
臼井は、3.11時には石巻市、東松島市、女川町を管轄する宮城県石巻保健所の統括保健師でした。
臼井は庁舎が水没していた4日間について、「どこにいたか、何ができなかったか」と切り出し、3.11時の体験、3.11前に検討していたこと、保健所を支える地域組織、3.11の検証から生まれたもの、地域保健法以前の活動から学ぶことなどについて記しています。
また震災直後から1年間にわたる石巻保健所の活動のまとめに参加しています。
臼井は、国による法制度の改革と宮城県による機構改革により、保健所機能が縮小される中で活動を継続し3.11を迎えたのです。
第3章 末永カツ子(元東北大学教授)
末永は、平成の大合併と3.11時の保健師活動との関連に焦点を当て、石巻市の旧北上地区、旧牡鹿町での保健師の体験と、南三陸町で取り組まれた活動について紹介します。
3.11直後には介護保険施設や臼井のいた石巻保健所の活動に参加しました。
発災から1年半後には、宮城県からの委託事業として保健師活動の記録を残すために沿岸部の14市町と石巻と気仙沼保健所保健師の約100人の保健師たちにインタビューを実施し報告書をまとめています。
第4章 佐藤幸子(元栗原市保健師)
佐藤は、初任地の石巻市で働いた後、南方町に移り、9町の大合併となった登米市で定年退職を迎えます。この章では、合併前の地域保健活動と合併後の課題等について記しています。
佐藤は、合併協議会の保健分科会では、住民へのサービスの低下をいかに防止するかという視点で協議をけん引しました。
合併後には、保健師の地区担当制の推進にゆるぎない信念を持ち、統括保健師として保健師たちを束ね、活動の充実・強化へ向けて苦心しました。
第5章 末永カツ子
3.11では、保健所のありようが強く問われました。
この章では、保健師・保健所の発展史をひもとき、保健師の萌芽と保健所の設置、地域保健活動の原点に立ち返り、保健師の本来の活動とは何かを確認して行きます。
さらには、保健所の再編経過として、戦後の社会情勢の変化の中で、どのように再編縮小してきたか、このなかで宮城県ではどのように対応し、3.11時には保健所や保健師はどのような活動が求められたかを整理します。
保健師活動のプロセス中で保健師自身が体験してきた“ゆらぎ”の意義を考察します。
さいごに、これから地域保健活動を推進していくための“協働知”を提案します。
“協働知”は、震災前に著した博士論文を土台とし、3.11での実践と本書の執筆者との議論を経て再定義したものです。

おわりに  村口 至(坂総合病院名誉院長)

1.
2011年3.11の東日本大震災は、市町村の境、県境を越える大災害でした。
私の勤める病院は塩竃市にある民間病院です。
地域では地域中核病院、臨床研修指定病院、地域災害拠点病院であるだけに、震災当初は、押し寄せる負傷者や避難者でごった返しました。
電気、水道、市ガスはストップ。
病院は自家発電、井戸水で当初対応したましが、テレビを見ている暇もなく、地域が、県がどのように被災しているかわからず数日間過ごしていました。
診療圏全体の情報がどこからも寄せられない。
そこで、診療圏2市3町の災害対策本部(役場)、保健所、医師会、薬剤師会、主な病院を訪問し、震災4日目に関係者の連絡会議を私の病院で開きました。
この場で初めて診療圏全体の状況:避難所のありか、医療機関の被災、各役場での対応状況などが把握できました。
避難所を回る保健師の情報が貴重でした。
この連絡会は、週1回、8週間行われ、医療機関間の連携、避難所での公衆衛生対策、市内クリニックの復旧状況情報を避難所に伝えるなど地域公衆衛生・地域医療の復旧に貢献しました。

しかし、この動きの中で保健師の活躍は目を見張るものがあるにもかかわらず、地域の保健所は被災したとはいえ、保健所の影が極めて薄いことを感じました。
この経験から私は、宮城県沿岸被災地の避難所を巡り、保健師と対話を重ね、『被災地保健師100人の声(宮城県)』⁾をまとめる企画を立てました。
わたくしの病院は、地域では中核病院であり、県内でも最も早く訪問看護に取り組み、地区ごとの健康懇談会を活発に行うなど、広く地域を視野に入れた活動をしてきたつもりでしたが、震災を経験し、公衆衛生―とりわけ保健師や保健所の役割を再認識しましたが、同時に、公衆衛生の現状に強い危機感を持つに至りました。
その後も次々と発生する日本列島の災害を迎え撃つために、今、日本の地域公衆衛生を見直す必要があると感じ、本書を企画しました。
2.
地域公衆衛生での保健師活動に対する再認識―わたくしのメモ
ある町(総合支所)では、上司が「保健師は保健師でなければできないことをやればよい、トイレの掃除などやらなくてよい。
」とし夜は山上の温泉宿にとまり、役割を全うできたと生き生きと語る若い保健師がいれば、隣町(隣の総合支所)では、「避難所から一歩も出るな」と上司に言われ、1ケ月間も家族の安否も分からず気が狂いそうになったとその苦渋を語った保健師もいました。
地域の中で暮らす「公務員」としての“身を賭した”活動があっただけに、総括的に教訓をまとめることが大事です。
わが国で体外受精第1号が東北大学で行われた女性が住む町で、町長から誰かを尋ねられた時に、断固氏名を明らかにすることを拒否するなど、町民の個人情報の守秘など基本的人権を守る保健師の“矜持を示す”体験をしています。
昭和40年代には保健師の家庭訪問活動が全国トップで「宮城県方式」と称賛された時期もありましたが、一方で、若手保健所長のグループから「中央追随宮城県」と批判されたこともありました。
(保健所医師グループ編著「危機に立つ保健所―再生への歴史的展望と実践理論」保健所法制定30周年記念 珠真書房1978年3月3日)
福島原発破綻以前に、宮城県女川原発対応策を作成していたことも示されました(4章)。
大震災は、従来からの公衆衛生・保健師活動の問題性を根底から問いかけることになりました。
よって3.11での関連事象を保健師の歴史から問い直すことが求められました。
戦後のわが国の公衆衛生の概括を論じ、宮城県の保健師の先達の市川禮子の理論から発した“ゆらぎ”を抽出し、課題の発展を試みています(5章)。
地域の保健師たちの共通した思い「地域分担制」の再確立は、我々一般市民の緊急の課題とすべきと思います。
なお、本書を閉じるにあたり、優生保護法強制手術で宮城県が全国突出して第2位であることに触れられませんでした。
この過去の事実に、地域公衆衛生は、どのような関りがあったかについての検証は今後の課題です。

本書は、1年8ヶ月にわたる論議のまとめです。
事務局を担って下さった辻順子さん(坂総合病院元薬局長)と、研究助成で支援してくれた東北地方医療・福祉総合研究所(事務長 福岡真哉、多賀城市)に感謝の意をここに記します
1) 村口 至、西郡光昭ら 「被災地保健師100人の声(宮城県」)同プロジェクト2013年

地域の医療供給と公益性ー自治体病院の経営と役割ー

(特定非営利活動法人 非営利・協同研究所いのちとくらし発行)
第1章
大震災被災地の医療復興とそこに見える問題
  ―公的地域医療を支えることで生み出す価値―         村口 至
第2章
地域医療崩壊の現段階と自治体病院の今後             八田英之
第3章
地域医療・自治体病院再編の動向と住民・労働組合等の取り組み   山本裕
第4章
自治体病院の財政制度と財政問題                 根本守
第5章
イタリア・ボローニャの地域医療システムの構造          石塚秀雄
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