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【東日本大震災日誌】

〜2011年3月11日 午後2時46分発生〜 東北地方医療・福祉総合研究所
村口 至

3-11(金) 

 pm2:46 在宅
 2階書斎にて長く続く巨大な揺れにて1階に下りる。台所の食器がバタバタと落下し瀬戸物の割れる音、ゆさゆさと家全体が揺れる震動が続く。再び2階に上がると、書斎の書籍がどかどかと落下し積み重なっていた。壁に書棚はつくり付けであったため書棚の倒れることはなかった。他の部屋のロックした窓でも、全て数センチ開いていた。停電!水道は出ている。ろうそく、乾電池をそろえ夜に備える。 16時坂総合病院へ、総合外来(旧本館)の1階にも患者搬入始まっていた。松田外科部長が陣頭指揮とっていた。安達形成外科医(定年退職)も来ていた。旧本館屋上の貯水タンクの破損による水漏れで8階フロアは水浸しとか。1時間後、利府町のジャスコの天井が落下し6歳の子供が搬入されたとのこと。小型トラック上で心臓マッサージしつつ搬入されたとか次第に救急搬入患者が増えてきた。闇に包まれ消防や救急隊のサイレンが止むことなく終夜響く。20時頃、喜代から携帯入る。中野中学校あたりから歩いて帰るとのこと。心配で真っ暗闇の中を、懐中電灯頼りに迎えに出た。間もなくタクシーで家についた由。クリニックを出て国道45号線を中野栄駅まで来るのに5時間を要した。車を駅のロータリーに置いて歩き出したところ、中野中学校あたりで、下馬まで帰るという男性と会い、一緒に歩きだし、途中でタクシーを捉まえたとのこと。3キロ離れた東北唯一の製油所のタンクの炎上した火炎が時々カーテンを通して部屋を照らす。室内は真っ暗。2匹の猫は発災以来姿を隠したままだ。

3-12(土)2日目

 am6:00
近くの国道45号線を多賀城の市中方向に歩く。石油精製所の黒煙が大きく風に流されている。多賀城中学校付近の国道45号線横断ブリッジに上ると、遥か仙台方向の一直線の国道が曲がるあたりにも黒煙が昇っている。視野に入る大きな火災はこの2ヶ所か。Am8:00坂総合病院出勤、新棟2階ゼミナール室でミーテイング、職員は、手際よく役割分担され任務に配置されている。新棟の被害は、2階のICUの水道漏れのみであった。同階の手術室で術中の外科医は震度2程度と感じ最後まで手術を終えた。整形外科手術は中止した由。入院患者にも問題なし。新棟の耐震性の素晴らしさを実感した。水道止まる。夜になりようやく猫が現れた。

3-13(日)3日目 

 6時
喜代と国道へ出る。イオンにすでに行列あり。けたたましいサイレンとともに赤い消防車両が10余台塩釜方面から突き進んできた。長野県松本市、佐久市、伊那、諏訪・・長野県勢が当地区に配置になったことがわかる。手を挙げ歓迎のあいさつした。通り過ぎた一隊は間もなくU-ターンし戻ってきた。津波が来るとの情報のためとのこと。高台の方向に去って行った。この津波情報は誤報であることが後で判明。このような誤報は日にもあった。7時、給水車到着の広報に多賀城小学校にポリタンクを持って行く。ちょうど最後の一人に間に合ったが何とも後味が悪い。部屋の整理後多賀城体育館へ給水受けに行く。すでに長蛇の列、3時間半待ち受水す。給水車が小型なため4度目の来車であった。夕日は傾き体は冷えてきた。

3-14(月)4日目 坂

 朝ミーテイング参加。医療活動の報告、全国民医連の支援者の紹介など。セミナールームは満杯で廊下まではみ出している。今田院長より、14時より地域緊急対策会議開催したい旨あり。そこで地域機関回りをすることを申し出、快諾。まず塩釜医師会館訪問、すでに横山会長、及川理事、高橋事務局長で打ち合わせ中であった。早速その中に招き入れられ、坂病院の取組状況報告と、会議について提案参加を求めた。またその際、開業している医師会会員のリストを作り持参することを求めた。しかし、電話が通じず3件しかわからないとのことであった。事務局長にバイクで訪問することを提案、しぶしぶながら引き受けてくれた。その後塩釜市役所、利府エキサイ会病院、利府町役場、多賀城市役所、仙塩病院、塩釜保健所を回りトップまたは担当者と懇談、状況把握とともに会議の案内をしいずれからも歓迎された。利府町では町長があいさつを求めてきた。仙塩病院と保健所の水没による被害は甚大と見えた。前者の玄関わきの水槽にはハゼ、ダボが10数匹元気に泳いでいた。入口フロアにある2階へ上る階段の途中の踊り場まで濁流が押し寄せた。1階フロアは泥で埋まっていた。検査機器のすべてが1階に設置されており、病院機能は完全にマヒ状態。入院患者も40人を残し避難所や近隣の病院へ移送したとのこと。塩釜保健所の近くにはボートや車が瓦礫とともに積み重なっていた。玄関の大きなガラス戸は壊れていた。2階では、所長中心にミーテイングが終わったところであった。所長は申し入れを快諾してくれた。
 14:00~15:30「第1回地域緊急医療対策会議」利府町を除き、市立病院、赤石病院院長を加え30余名参集。状況報告後、医療機関グループと自治体グループに分かれ協議。自治体グループに参加し、保健師による避難所ラウンドの必要性を確認、しかし人員不足にて全国支援要請を保健所を通して行うことを確認。保健所長は当初拒絶的であったが確認させた。

3-15(火)5日目

 坂病院朝会参加後、医師会会長と打ち合わせ。薬剤師会事務所開いていないため及川理事と小塚薬剤師会会長の薬局を訪ねたが周辺は水没し近寄れなかった。そこで、豊島薬局(副会長)を訪ね、医師会同様の開局薬局リストの作成と次回会議の案内をした。昨日の会議に事前案内できなかった地域を視察のため、10:30出発 七ヶ浜町役場へ、ガソリンを求める車のためのラッシュにあったが町に入るとスムーズであった。後でわかったのは、町民の過半数が避難所にいたからであった。町役場の総合対策本部には迷彩服着用の自衛隊員、消防署員などおり、石油精製所の火災対策が緊迫していることをうかがわせた。健康福祉課長によると、避難所27ヶ所に1万6千人、役場も避難所となっている。保健福祉課の一角でおにぎりを握っていた。避難所の給食つくりの大変さを語っていた。坂病院退職後開業しているK医師が、保健師とともに避難所巡回していることが高く評価されていた。この医師は間もなく、町の母子センターに自らの医療器具を移動し仮設診療所として活躍している由。
 松島町役場:1階フロアー使用可、避難者3,700人、外人観光客500~600人を町がチャーターしたバスで仙台駅に送った。分散してホテルに宿泊してもらうため。友好姉妹都市の秋田県にかほ市から、給水タンク車、物資運搬車などの支援がきている。保健師も2名来ているが、厚労省より福島へ回ることを求められたとのこと。 原発問題が、大震災の救援活動にも影響している。松島病院:玄関の石段の崩れ以外被害少ないようだ。停電で院内は真っ暗。院長の話では、HOT(在宅酸素療法)の方が多数避難してきてベットを塞ぎ困っている。パート医がすべて仙台在住のため、ガソリン不足で来れないため、院長一人で診療にあたっている。水は町で支給してくれ助かっている。 中山クリニック:海岸近くであるが津波の影響なし。透析患者4名を仙台社会保険病院へ移送。透析患者50余名、 町が発電機と給水車を用意してくれたため、本日より腎透析開始できた。町の支援に感謝している。しかし、透析技師1名が行方不明、医師一人での負担が重い。透析看護師2名と医師1名の支援求められた。Dr中山の様子、表情はかなりやつれており、体調が心配だ。夜、福島市在の大学の級友田中勝正君より電話あり:息子夫婦が多賀城市明月で被災した。城南小学校に避難している。タクシーで福島に迎えに行きたい由。

3-16(水)6日目

 6時起床、多賀城市役所に寄り喜代の車の緊急車両用交付手続きのあと、城南小学校に歩き向かう。新道もでき道に迷いながら到着。避難所体育館で受け付け事務にスピーカーで呼び出し、田中君の息子夫婦2人と会う。 我が家に案内し、食事後入浴を勧めた。妻は妊娠7ヶ月。地震後逃げようと玄関を開けたところ波に襲われ玄関の柱にしがみ付いて助かった。2階に避難した。夫は勤務先の仙台市内から徒歩で帰宅せんとするも途中、避難場所の中野中学校で1夜明かし翌日帰宅した由。若いがかなり疲れ切っている感じだ。風呂に入れ、食事を与える。とても喜ばれた。その後、喜代がクリニックに行くついでに、予約してある仙台のホテルに送った。長距離バス開通後福島に寄り、その後実家の会津に行くとのこと。避難先が原発汚染、しかも身重で不安が大きいに違いない。クリニックでは、我が家の洗濯物の洗濯、タンクに水道水をためて我が家に運んだ。

3-17(木)7日目

 朝、同級生押田氏(日大名誉教授)に電話、法医学会として死体検案問題で、岩手、宮城に専門家を派遣した。さらに支援検討している。石塚いのくら事務局長に電話。
坂、医師会ミーテイング参加。11:00院長と東北厚生年金病院訪ね田林院長と懇談、B-C棟の連結部分の破損のためにC棟使用不可、患者移送で一時100ベッドまで減らしたが回復を図っている。本日より通電したため病院機能の回復に取り組んでいる。本来の機能回復までには半年必要か。全科運営開始した。腎透析スタッフの中山クリニック応援は無理とのこと。看護師の坂支援は検討してよいとのこと。職員のガソリン問題あり。2:30 松下腎クリニックへ電話、息子先生の話では院長は、1ヶ月前に脳出血で大学病院入院中。中山クリニックの件については検討したい。医師2名でやっているので支援できるかもしれない。大学医局に支援を依頼する。2:40 坂で清水洋氏(東京民医連)としばらくぶりの再会。 浅沼栄二氏(患者-酒蔵一ノ蔵の幹部)に電話:松山町の一ノ蔵酒造所の製品の2/3は破損、醸造中の製品は停電で不能化、大変困難な事態を前にしている由。17:00坂ミーテイング 避難所収容者からガフキー9号患者発生入院、全国支援本日6県連60名到着、本日153名延べ316名。

3-18(金)8日目

 朝、高柳新氏より電話、角頼先生も心配している由。医師会では会長に提案、土、日、連休の医師会館での休日夜間診療センター開館の案内を広報車で回ることを提案するも、医師会には拡声器付車なしにて、行政に市民広報の強化を求めるよう提案した。これは、会長の口癖に、避難所回りする民医連の医療班が患者を坂に集中させているという指摘ありそれに対応することでもあった。医師会会員の避難所での医療活動をしている実態の把握することを勧めていたが、その調査用紙を示された。患者の受診数だけでなく医療活動上の要望、意見も記録する欄を作ることを提案した。11:30 14日会議に欠席した利府町役場を訪ね、本日の第2回会議の案内に訪れた。帰路営業していた中華飯店に入り昼食をとる。満席状態であった。あと数人分で食材なくなるとか。避難所にいる人、頑張っている職員たちが頭に浮かび、落ち着かない。同行運転手の藤井君の義母78歳が気管切開で自宅療養中のところ、喀痰つまり死亡した由。喀痰吸引器が停電で使用不能だった由。このような悲劇は増えそうだ。 14:00~15:40 第2回地域緊急対策会議:30余名参加。①避難所問題(再編の情報を医師会、坂病院に日報で、巡回医療班のコントロール、近在開業医の情報広報、)②病院機能への支援(給食、酸素、燃料-職員の足) ③保健師の支援配置 ④医師会長は開業医の活用などを強調した。  夜間に白土元教授(石巻斉藤病院勤務)に電話:元気だが泊まり込んでいた。石巻日赤病院に患者集中して斉藤病院に来ない、院長に病院間連携問題で行動することを進言しているが動かない。大学が避難所巡回医療班を毎日専用バスで送っている。約50人くらいか。それに便乗して通っている。

3-19(土)9日目

 坂 朝会後医師会訪問、①避難所の医師会としての担当医師体制の構築を提案した。これに対して、会長はすでに「大災害対策体制」は作られているが動いていない。ではどう動かすかについて、キャップ、サブキャップに会長名での文書を出すことになった。②避難所情報を医師会と坂に日報で出すよう再度行政に求めること。③東松島視察するので医師会長の名刺いただく。10:30 南棟8階(旧本館)訪ねる。本田女史(司書、定年退職)とスタッフ在。書籍は飛び出し、屋上の水槽破損による水漏れで床に落ちた書籍が被害受けた。カルテは大丈夫であった。背丈の低い本田女史は、落下する書籍の中で死ぬ思いであった由。 12:20 東松島市へ一般道路をゆく(運転手藤井氏)。大郷―鹿島台を通り矢本に入る。鳴瀬地区の被害は大きい。鳴瀬中央医院は周囲の大木もなぎ倒され、平屋1階の建物は、玄関も泥の中、誰もいない。周辺の田んぼは、春耕時の田のようにたっぷりと水が張り畝は水没し、さながら広大な湖の如くであった。海水であるが。真壁病院で理事長と会う。今日通電した。1階床は汚れていない。薬のみ外来始めた。当市では仙石病院と2病院しか機能していない。警察2名、浜松航空自衛隊医療班3名も来ていた。警察との話では海岸に1,000体の遺体が水中にある。トロール網で回収するしかないとの話。毎日100体ほど収容しているなどと語っていた。病院周辺に、中部電力の工事車3台で作業中。全国的支援を感じる。東松島市役所訪問し、担当者(保健師)の説明受ける。避難所・・・ヶ所に・・・人収容。国際医療センターと日赤医療班が2チームで巡回し、すでに3順した。被災した開業医たちが救護所での医療活動や避難所回りに参加している。孤立している宮戸地区には自衛隊医療班が入っている。泥の中を医師会長の伊東医院を訪ねるも医院も泥の中であった。誰もいない。さらに東部循環器医院を訪ねる。職員が一階の泥の掃除をしていた。院長と会い電気、水道などライフライン断たれたまま。日和山地区の2つの避難所間で喧嘩が起こる、電気なし、夜間車ごと強奪されると伝わっており、付近を通るなと噂あり。職員は家を失い、ガソリンもなく院内宿泊して頑張っている。 伊東医師会長を呼んでくれた。医師会員の過半数は診療不可能、2名の会員が犠牲になった。医師会機能は仙石病院で当面あたる。吉田川沿いの道路の両脇には、川から乗り上げた太い材木の山が車を押しつぶし、建物にも被害を増幅したようだ。帰路に貞山運河に沿う道を走ったが、倒木や、家までも運河に浮かんでいた。落ち着いた風情のある景色が無残である。ここに居住している患者さんが心配だ。17:30帰院。槇君(福井県連医師、坂研修歴)と会う。妻と支援に来てくれた由。 18:00宮城民医連対策会議:2県議、高橋衆議院議員も参加。①避難所の管理責任はどこか。②保健師の増強配置を ③塩釜保健所の管理地域の縮小を ④行政職員の疲弊に支援をと発言した。

3-20(日)10日目

 医師会へ、東松島視察報告、石巻視察について会長のメッセージいただく。 10:15石巻へ (神馬、村田、積医師、菅野看護師と) 「緊急支援車両」の張り紙で高速道をフリーパスで50分で石巻市役所へ、対策本部と医療担当責任者と会う。避難所・・、計・・・人収容、日赤医療班4チーム、その他兵庫など2チーム、東北大チームなどが入っている。他に、総合支所6ヶ所が避難所になっている。うち、雄勝、北上支所が環境が悪い、通信連絡も不十分だ。保健師19名に加え福岡から4名入っている。石巻保健所は県合同庁舎内にあるが水没している。福祉避難所を中学校に設けた。避難所支援医療チームは、日赤医療チームに参加してほしい。舛皮膚科(医師会長)訪ねるも1階は被災、2階から奥さんが出てきて会長が医師会館に毎日行っている旨あり。駅そばの健康相談センター内の医師会館を訪ねる。会長は元気そうだ。会員の半数は開院不可。23日から13軒が診療再開予定。病院は市立病院が使用不能のため斉藤病院と日赤病院のみ稼働。避難所の医療巡回に10余名の医師参加。行政や日赤との情報連絡網なし。湊小学校訪問。避難者会長の庄司慈明氏(税理士)の案内で避難場所視察。1階は泥、2階の日赤医療班室を訪ねた。名刺交換したのは、佐久総合病院副院長と長野県医師会常任理事であった。そこで日赤医療班の構成が日赤職員のみでないことを認識。佐久病院の若い女医もいた。医療班活動の地域格差があること。この湊地区はもっと強化必要との話であった。医療班のコントロールは当面日赤でよいであろうとのことであった。密着取材で付き添われたテレビ東京の取材班の求めで避難者がいるある教室が庄司氏に案内された。突然、医師が来たので医療の相談に乗りますといわれた。30余人の中で降圧剤服用中8名、心臓病2名、糖尿病3名、前立腺肥大1名など、避難所に入り腰痛始まった1名。なぜ歩くことが必要かの一口講話をした。医者の顔見るだけでよくなったと歓迎された。庄司氏から「ハンドマイク医療班」を要請された。最後に日赤石巻病院訪問し飯沼院長(同級生)と会う。張り切って陣頭指揮している様子、家に帰っていないようでもあった。日赤医療班は医師1、看護師4、事務2で1チーム編成し6チーム出動している。今日、医師会、市役所を回り情報交換してきた。地域的コントロールタワー不在。今後は、病院医師の疲弊対策で、大学医局に派遣要請するつもり。看護師は1週間単位20名で派遣される予定。18:30帰院。

3-21(月)11日目

 朝会始まる前に水戸部理事長より、仙塩病院の困難さ(河北新報で入院中患者10名死亡)への対応のため訪ねる旨あり。朝会で積医師(天草診療所)より昨日の報告指示。医師会館で避難所活動の内容について会長のコメント文書の意見求められた。石巻視察報告、「舛会長は当医師会からの支援要請は特になかった」旨、以下提案した。①仙塩病院の困難事態に対し、病院機能を市立病院に移すことを提案。貴重な整形外科機能を当地で生かすことにも意味がある。両病院院長に会長から連絡とってもらうことにした。 ②福島原発地域へのシルバー医師支援隊を提案。東北医師会や日医へ提案してほしいとした。今週から外来診療開始、午前外来の多くは薬処方希望者。他病院、医院受診者も少なくない。

3-22(火)12日目

 朝、医師会で高橋事務局長に避難所活動会員の情報取得のため視察して記録を。次回の「塩医だより」は震災特集になるだろうからと提案した。
10:00石巻湊地区ハンドマイク医療班のために出発。緊急医療支援表示をし、高速道で行った。車の量はやや増えたか。自衛隊の車両が目立つ。重いハンドマイクを庄司氏が持ち、湊、八幡、不動、藤の巻、稲井地区を2.5時間ほどで回る。2階の老人を見てほしい、血圧の薬なくなった。咳止めの薬ほしい、腰痛の湿布薬なくなった。糖尿の薬なくなった。デパスなくなると過換気症候群になり胸痛はじまる等々20名ほどの相談に乗った。BP170-200/の方も数人いた。かかりつけ医、薬局が機能していない。日赤病院に行ったが降圧剤3日分しかもらえなかった。残薬見せた人、手書きで処方内容示した人、飲みかすのラベルのみ示した人、全く失った人などさまざま。「お薬手帳」を知らない人が多かったのは驚きだった。など慢性疾患の薬の問題が深刻であることが分かった。日赤長野医療班チームの車が狭い露地まで入っていたのと遭遇。15:30切り上げた。さすが疲れた。慣れない長靴を長時間履いたためもある。

3-23(水)13日目

 午前外来診療 36名、薬のみ半数、他院受診中で薬のみ希望者4名、12:45~13:30医師会館で及川理事、会長、事務局長と、石巻ハンドマイク医療班活動報告。本日の会議で座長を保健所長とすることを県より指示された旨伝えた。会長からはならば場所を医師会館にせよと指示あり。 14:00~15:00 第3回地域緊急対策会議 20余名、初参加の緑ヶ丘病院副院長より報告、閉鎖病棟使用不能にて、開放病棟に移動し凶暴な患者を拘束下においている。仙塩病院の整形外科の力を市立病院に移動し、地域の整形外科を維持できないかを提案したが、必要なら医師は出せるとのことであった。利府エキサイカイの透析医を中山クリニックに出せないかとの提案には、社会保険病院の系列下にあり即答できない由。避難所生活や入院患者での貧弱な食事のために糖尿病患者の低血糖発作が2例報告あり(市立、エキサイカイ)。院内滞留の帰りどころのない方の対処に、行政の責任で対応することを確認。今後は、避難所対策が主になることを確認。次回からは医師会館で開催する。
*石巻地区に移動薬局を提案(庄司氏、県薬剤師会広重理事、医療センター山田医師) 同地区は半壊住宅が多い地域である。家の中に避難している人が多数おることへの対応。避難所で得られる情報に触れられず、世の動きから“孤立”していることへの対応としての「拡声器付移動薬局」で薬をつなげておくことが必要。

3-24(木)14日目

 休暇 終日家にいた。かぜ悪化、咳、痰出る。 災害日誌、記録作成。喜代も同様症状、倦怠感強し。今日きよクリは定休日。

3-25(金)15日目

 朝会参加、八田女史(元坂病院看護師、現千葉民医連)と民医連支援者受付で会う。懐かしい。県連神馬氏(災害県連ニュース担当、この日不在)のPCに石巻ハンドマイク医療班の件入力。県薬剤師会広重理事に電話:移動薬局提案の件については、現地への支援をすでに始めており、当面は避難所を対象にしている。提案の件は当面検討できない由。午前中は記録作成、補修。大学病院より患者引き受け依頼の電話(気仙沼地方の患者が押し寄せている)、仙台医療センターより患者受け入れ要請電話(給水槽の破損で患者100人を転院予定)などいずれも、基幹病院の過負荷状態対策必要。12:45医師会へ、会長、及川理事、高橋事務局長と 以下提案①市立塩釜病院の空いているベットの活用のために会長として働きかけを。その際、OB会員がopen病院形式で参加できないか。②非被災地区の公立病院の空いているベッド、病室の再開のために県医師会で検討し、県当局に働きかけてほしい。スタッフは、被災病院の職員を再配置することや他県からの支援を受けるなどで体制をとること。以上を要請した。28日の第4回地域緊急対策会議でも検討してみたい由。 ②の件は、共産党県議団室の遠藤県議にも提案した。さっそく佐々木部次長に働きかけた由。検討したいとのこと。この件は、広大な地域の医療機能を喪失したことに対する当面の“抜本的”対策としての意味を持つ。失われた機能を受け入れるためのそれに相当する受け皿が必要だ。その受け皿として、当面緊急的な対応策として、これまでの自治体病院のベッド削減策で空いた病室、病棟、ベッドを再活用することは可能なはずである。医療スタッフは、人事整理した元職員、被災病院のスタッフその他県外の支援医療人などを当てる。このために県当局のイニシアチヴが必要だ。

3-26(土)16日目

 8時出勤、午前外来手伝う(処方箋)23名、11:15三友先生(リウマチ膠原病外来)と今後のことについて打ち合わせ。佐藤副事務長との間ですでに済んでいた。10:00医師会高橋事務長自宅に電話す。昨日、私の提案に対して会長が塩釜市立病院長に電話し閉鎖ベットの再解放を伝えた。県にもその旨電話した由。三友氏の帰宅タクシーに便乗しきよクリへ、氏は、「専門家は想定外の規模の津波だった」と繰り返すが、「想定に誤りがあった」と謝罪する専門家は一人もいないと怒っていた。尤もと思う。厚生年金病院は入院患者が精神科20名に絞っている。異常なかったはずのA,B棟にある医療機器(検査等)の損傷が大きいためである由、氏の息子さんが肺外科医師として年金病院勤務でありそちらの情報のようだ。数日前に訪問した時の田林院長の話と随分異なる。この件、今田坂病院長に伝えると、今日水戸部氏が訪ねたときは、同院長の話は250ベッドまで回復の見通しを語っていたとのことで、院長の語りの真偽に問題を感ずる。帰宅途中相変わらずガソリンスタンドに長蛇の車の列に会う。14:00遠藤県議より電話、県環境福祉部佐々木次長は、大学や医療センターでは、坂病院が忙しいのは分かっているので坂にまで患者移送の依頼はしていない。とのこと。問題はそのようなレベルの問題ではない。この際「閉鎖している自治体病院の病棟や、病床を再開し患者の受け皿を大きく作ることにある」、医療スタッフの再配置も含め県当局のイニシアチヴと責任で遂行することに意義があるのだ。

3-27(日)17日目

 休暇 喜代給油券取得に多賀城市役所へ、近所のイオンに並び食品購入する。10分ほど並び1品目5個までの制限、牛乳なし、猫のトイレ砂なし、豆腐、納豆なし、トマト、スパゲッテイ、ジャガイモなど購入。就寝前にわずかに沸かした湯で体を拭く。

3-28(月)18日目

 午前外来、予約者の多くが来院、避難所生活経験者はいなかった。知人、親せきに犠牲者生まれた患者いる。塩釜の離島の雑貨商を営む親せきの話として、津波後避難中に、店のレジが壊され現金をぬすまれたとの話、離島であるため、多くない島の人の仕業かと暗い気持ちになった由。この手の話-噂話と思いたくなる話は他にもある。車ごと津波に襲われ犠牲になったドライバーの財布や指輪泥棒が跋扈しているなど。薬のみ、他院所通院中の薬希望者などいつもの外来と異なる。午後北部診療所4時までほぼ満杯、この地域は高台にあるため津波なし、地震の被害も大きくない。利府町に隣接しているためか親せきにも利府町在住が多く親族に犠牲者いない。

3-29(火)19日目

 午前外来支援、本来は7時出発で柴田町協同クリニックの日であるが、JR東北線不通のため行くための足がない。昼に医師会に行く、昨日の第4回地域緊急対策会議の報告を受ける。地域医療の公共性を再構築する方向で進んでいる。避難所への医療班派遣調整に保健所が責任持つ。市立病院の空きベットの再開を指摘して医師会長など。保健所の役割とともに地域医師会長の問題意識を高める点で。昼食を支援隊用部屋でとる、沖縄からの女医、金沢の医師と話す。

3-30(水)20日目

 午前外来 予約患者のうち数名来れず、同数以上に薬のみ患者。津波の恐怖を語る方、親戚の犠牲者について語る患者・・・。県連丹道さんの話、娘さんの名古屋での大学の友人が、トラックで救援物資積んでやってきてくれた。坂病院も共産党からも引き取りは取り断られ、自宅庭で開陳してご近所に案内した。若者は余った物を石巻まで出向いて配った由。若者の意気に感動する。2時、塩釜市役所に小野市議の案内で佐藤総務部長と会う。当地区の病床拡大のため市立病院の閉鎖部分の再開を提案。状況説明に納得、50床は生かせる由。医師会長から市長に直々に申し入れるとスムーズに行くだろうとされた。

3-31(木)21日目

 午前、患者の検査記録調べる。13時医師会館へ、会長に昨日のことを伝え話す。会長の話では、市立病院院長との間でベット30開けられること、しかしスタッフがいない。県にもベット増やすことに内諾受けた由。①市長に申し入れること ②第5回地域緊急対策会議で、市立病院のべット拡張とそのためのスタッフ対策について議論する この2点を会長と確認。14時、坂病院全職員集会:全日本民医連会長のコメント(DVD)、これまでの救急医療の実績を郷古救急部長から、各職場の報告、矢崎避難所担当報告、千葉精神科科長のコメント、今野臨床検査師の詩の朗読などなど震災発生以来3週間のまとめ、ドキュメントの報告を聞いた。民医連医療運動の素晴らしさと、職員の使命感に燃えた取り組みに感動した。終了後、今田院長に医師会長との話内容を伝えた。隣圏域の東松島、石巻の中期的医療需要も視野に入れたスケールでの取り組みが必要と考えることを強調した。喜代の電話で、帰宅途中イオンに寄り春巻きの皮を購入。牛乳は売り切れだった。

4-1(金)

 永沢専務から日曜日に、南三陸、気仙沼地区の視察を誘われた。

4-2(土)

 喜代の通勤車に便乗し仙台へ、10時30分予約の歯科医受診のため、ガソリン節約のため徒歩にし1時間半前に出発した。途中のコンビニ立ち寄るところすべて牛乳なし、それどころか、他の商品も新しい入荷はないようだ。約40分歩き疲れたことと時間に余裕あったために大学病院待合室に入る。土曜日で休診にて閑散としている。20分間休む。歯科途中に西友店あり、そこには4種ほどの牛乳がたくさんあり。福島県農協牛乳を敢えて選んだ。40分徒歩できよクリニックに戻る。15,000歩になっていた。17時より、横田県議事務所での第2回震災復興会議に参加。被災医療圏の気仙沼、石巻の医療機関状況とその失われた機能の支援方策について提案す。各団体から状況報告あり。神戸震災に取り組んだ弁護士グループの発言。①あくまでも人災の視点で ②人権の視点 ③福島原発に関連して、女川原発の問題の発言あり。放射能測定施設が流失し犠牲者も出ていることが公表されていない。透明性が低い問題の指摘あり。計測器を購入し定点観測すべきの意見も。

4-3(日)

 休暇 ガソリン問題解決の目途が立ったために、喜代と七ヶ浜町を視察。海岸につながる平地は2階~3階の高さまで津波に襲われている。菖蒲田浜の松並木は斜めに傾いているが集団で立っている。そこを超えて津波が襲い街道を隔てて立っていた家並が完全に消えている。恐ろしい津波の威力だ。原爆投下直後の広島のようでもある。空は真っ青であるが海は淀んだ色。30年ほど前に開発始まった汐見台団地の低地開発部分は、家並に代って湖が出現している。海岸線からかなり離れているはずであるが。

4-4(月)

 午前診療、午後北部診療所。1時に医師会長と懇談。①避難所問題:管理責任を明確にすること。そこに固定した保健師配置を。医療班の医師も固定すること。中期的な管理体制を整える議論を。②市立病院のベッド開放について出席予定の佐々木県次長に確認させること。③隣医療圏(石巻、気仙沼)の医療機能の崩壊に対しての対策を県医師会理事会で検討すること。⇒病院と病床の資料を提出した。以上を、2時からの第5回地域緊急対策会議に出し論議進めることを要請した。今日は、危機一髪で脱出したという患者の話が多かった。幼稚園帰りの孫3人の手を引いて高台に逃げた。娘が迎えに来てくれ急ぎ、走れない足で頑張って逃げた。2階まで津波に襲われ3階から流れくる車、家々を呆然と眺めていた。車を気にして逃げず犠牲になった同じ部落の一家の話。「電話をいただいてうれしかった」などなど。北部診療所では、高台にあるために被災者は少ない。

4-5(火)

 6時50分に県南柴田協同クリニックの多賀城在住の専務梅津氏の迎えの車で柴田町へ。途中高速東道路から、仙台荒浜、名取の被害の大きさにまた驚く。一面の田んぼの中に、流された車が点々と置き去りになっている、木々が根こそぎなぎ倒されている。高速道が高い位置にあるために被害の及んだ広さがわかる。北条所長の話では、死体捜査にあたっている自衛隊員の話として「瓦礫に埋もれた死体の足を引き上げると上半身ないとか腕を引いても体がないとか 遺体の状態が極めて悪い」とのこと。これでは若い自衛隊員が精神的に参ってしまうのもわかる。海岸の亘理、閖上地区が近いため、患者の親せきで犠牲になった方も少なくないとのこと。さらに、福島原発から逃れた方の薬処方依頼の来院者も目立つとのこと。民医連の支援隊が入り、亘理の避難所生活者の要介護者の入浴サービスを始めたとのこと。大変喜ばれている。同クリニックは、駐車場の一部が陥没しただけで実質被害はなかった由。19日より、午後心外来も担当となった。山崎前所長が松島海岸診療所に専念するための処置。

4-6(水)

 午前坂クリニック。予約患者の中に、危機一髪で難を逃れた方が少なくないことが分かった。今回の地震は大きく長かったことが、津波から逃れる判断を素早くさせたことでもあったように思える。それにしても多くのお年寄りにとっては大変であったに違いない。午後北部在宅往診5件。暫くぶりの往診だ。室内をきれいにしているところが多かった。4人は完全寝たきりで胃瘻設置している。家族はかいがいしく介護しているが、昔は病院で管理していた方々だ。従来午後は松島海岸診療所であったが、松島の診療が旧に復しないため断られたため。

4-7(木)

 16:00 県対策会議世話人会 県議会共産党議員団室、参加者10余人、雇用・中小企業対策、医療福祉、教育、建築の4分野について論議、週末の第3階会議に報告決定。原発問題では論議深まらず。喜代の車で往復した。夕食は子供たち2組の夫婦に福島の丹治夫妻を加え、順子さんの誕生祝を兼ねて晩餐会。遅れて参加。大震災M9は、前回家族が集まった翌日であった。この夜11時32分に震度7.4の地震に襲われた。再び停電。1度かたずけた本が再び落下、別室の本棚は壁から数センチ移動した。これは本震ではなかったこと。本震では本が飛び出したが今回はそれはなし。震度が低かったが地震の様式が違うようだ。再び停電。

4-8(金)

 病院に顔を出す。今田院長に「第5回地域緊急対策会議」の状況について話し合う。課題が詰められていない印象を受けた。長沢氏に明日の石巻行きの同行を求められる。私が2度訪問した後、今田院長などの視察があったが必要な情報を得られなかった由。

4-9(土)

 10:00 石巻へ、長沢専務、天下県連事務局長、鳥取県連事務局長に同行。今後の石巻地区への支援策の検討のため。一昨夜の地震の影響で三陸道が不通になったが幸い再開通していた。石巻に入り県連尼崎氏を拾い、道案内してもらう。まず市役所を訪ね担当課長の話を聞く。避難所の医療対策は日赤の医療班(15地区)によって実施されている、医師会との連携もでき、1地区は医師会員による避難所患者対応(避難所巡回ではなく、医院の受診)となった。雄勝、北上などの新市合併地区の状況は十分に把握できていないとのことであった。半壊住宅も含め高齢者の訪問は保健師により第1巡を終えた。2巡目3巡目に入っている。保健師は19人であるため全国支援を受けている。日赤石巻病院の伝えられる本来の機能麻痺状態対策として、近隣圏の自治体病院による患者受け入れについて話し申し入れを市として行うよう提案した。日赤病院と相談し是非検討したいとのことであった。福祉関係について担当課長の話を伺う。予想外に特養、老健などの施設被害は2件で少なかった。グループホームなどの調査はこれからとのことであった。その後移転した共産党地区委員会を訪問、三浦地区委員長と懇談。日赤の医療班活動は評価、支援活動の内容によるが雄勝地区の援助の手薄な地域について、知り合いの市議に問い合わせしてみようとなった。その情報を得て支援策を検討することになった。そこで昼食をいただく。事務所には支援で送られてきた物品であふれていた。千葉や京都の米などもあった。その後、湊小学校の避難者の会会長の庄司氏を訪問。私の訪問は3度目となる。体育館では被災者は列をつくり支援物資の受け取りをしていた。2階の廊下の隅に設定してある避難者本部の机に向かい電話を受けていた。避難者は1,300名をピークに現在は306名に減少した。授業開始のために退去を求められているが行く先が示されていない。おそらく仮設住宅や転地などで元のコミュニテイがばらばらになりそうだ。一生懸命にやっているがお前の票にはならないぞとも言われている。先日行ったハンドマイク医療班活動は非常に良かった。移動薬局も始まった。君の提案が実践されているといわれた。庄司氏の疲労具合、健康管理が気になった。15:30坂病院到着。17:00仙台長町横田事務所での第3回会議に臨む。医療福祉分野について報告。仮設住宅の建設問題など論議になった。三菱が大々的に乗り出すようだとの話も。

4‐10(日)

 河北新報朝刊に「震災復興計画策定懇談会」座長小宮山宏(三菱総研理事長、元東大総長)を県が立ち上げる構想を伝えていた。昨日の話題が早くも現実のものに。ゼネコン主導の復興にはストップをかけたい。喜代の希望で、山形天童の日帰り温泉に行く。駐車場には仙台や宮城ナンバー車が目立った。避難所避難者が貸し切りバスで近在の温泉に繰り出しているという話も耳にしていた。風呂に入りたい要求は強いはず。帰りには喜代の大学での同級生の山本博司氏のクリニックを訪ねる。随分老けた感じ、話しぶりもゆったりとして、これまでの苦労がうかがわれた。同市の運動場には福島原発からの避難者が多数収容されているとのこと。地震では停電などあり、患者減少している。高齢者が精神的に落ち込み活動が低下しているように感じるとのこと。

4-11(月)

 午前坂クリニック、午後北部診療所。

4-12(火)

 7:00 柴田協同クリニック専務の梅津氏の車で、柴田町に向かう。内視鏡検査開始していないためか、患者が少ない。1ヶ月過ぎたころより外来患者減少の傾向は一般的現象か。やはり高齢者の活動性が落ちているということか。帰宅時は前専務の渡辺氏の車で亘理町を回る。海岸に近づくにつれ他の被害地区でも見た悲惨な光景が広がる。名取川河口周辺は広大な空き地のようだ。河口から500mは遡っていると思われる位置の川沿いにあるコンクリート製の電柱が円形に曲がって立っていたり、折れ曲がっていたりで津波の力の大きさとともに及び方の多様さを示している。渡辺氏の娘婿が半壊住宅の始末に毎日通っているとのこと。

4-13(水)

 午前坂クリニック、40代の女性談では、地震の時は仙台港近くの会社ビル2階にいた。マイカーで逃げようとした時に、上司が車はダメだ。走って逃げろと叫ばれ、近くの公園の小高い丘に逃げた。ところが間もなく濁流の津波が迫ってきたためそばの7階建てのビルに逃げ込んだ。3階から外を見ると、港からタンクローリー車やコンテナ車など大型の車も含めて広い道にあふれラッシュ状態で前に進まない。そこに濁流が襲った。大型車も流されたり、転覆したりの惨状を目の当たりにした。まさに危機一髪で命拾いした。車でも逃げ切れなかった人々はかなりの数にのぼりそうだ。このような状況であったのだろうか。昼に対策本部を訪ね、月曜日の第5回地域緊急対策会議の記録を見る。情報交換は進んできているが、課題の詰めに乏しい。仙台宮城野区医師会幹事阿部郁夫氏(同級生)に電話する。避難所の管理をオープン病院から地区医師会で引継ぎ、日替わりの担当医師の配置と、避難所を巡回するバスでかかりつけ医通院条件つくりなど積極的である。ご本人の家、診療所の建物は被害なかったが、医療機器や家具などの被害が大きかった由。午後在宅往診、郷古看護師と在宅往診へ、七ヶ浜町汐見台の患家宅は崖のヘリにあり、患者の母親の話では、「崖下の田畑に、濁流が車や家もろとも押し流されてきたのを映画でも見るような感じで眺めていた。やがて濁流が崖を蹴上がってきたため高台に逃げた。」その後の余震のたびに逃げているとのこと。海までの障害物がなくなった今は、さらに津波の被害を受けやすいため。筋ジスの息子を抱えての避難は口で表せない難儀なことであろう。その他すべて介護度Ⅴの患者さんであるが、地震以来終夜騒ぐようになった方などもいる。6時帰宅、夜10時より3日間断水となる広報車が回っていた。またかとの思いしつつ、物置にしまったポリタンクなど持ち出し水を貯めた。

4-14(木)

 13:00病院へ、長沢専務と打ち合わせ。14:00理髪店へ、タクシーで仙台の会議へ。17:00県民復興会議世話人会 於共産党県議団室。津波被害に集中し、内陸部の地震被害の問題の大きさが報告あり。今後の課題となった。避難所など長期化することに対して、ボランテイアでの対応の限界が現れている。中長期的対応政策を行政に求めてゆくべき。早期に、県民の復興会議を立ち上げるべき。その組織で避難所収容者の要求の組織化などの取り組むべき。次週の会議で具体化の論議をすることになった。帰りに、大震災特集号(サンデー毎日、朝日ジャーナル、AERA、週刊ダイヤモンド、NEWSWEEK)購入。河北新報社刊は売り切れか。

4-15(金)

 10:30 遠藤県議(共)より電話あり、被災し機能停止していた公立志津川病院の患者を隣圏の公立佐沼総合病院で引き受けることになった由。この間民医連が要求していたことの実現か。県の指導か否かについて確認したいとのこと。まずはよかった。 11:30坂病院で昨日の資料のコピーを作成する。14:00長沢専務と打ち合わせ。 同級生の真家氏からハガキ届く。29,30日と支援に参加する由。函館の中学時代の担任の大家先生からのダンボール届く。五島軒のカレーライス、山親父など懐かしいものが沢山入っていた。夜電話したところでは、函館でもいろいろな事象が起こっている。津波で1名犠牲、マンションの7階から津波の押し寄せるのを見ていて恐ろしかった。避難者は畳の上に居たいのに、高台にある寺院はすべて施錠して避難者の侵入を拒んだ。とんでもないことだ。タクシーもいつもより少ない。全般的に節約ムードである。マスク、電池など品薄だ。納豆が入荷しないのは包装のパックの生産が減少したためとのこと。節電のための停電もあった由。思いのほか、影響の大きさに改めて驚く。

4-16(土)

 10:30 予約のあんどう歯科医院受診。14:00仙台弁護士会館での「  」聞く。被災者の避難所生活での「災害救助法」で施策されていることを知り、力にできそうだ。「災害被害者権利法」なるものを日弁連で提案してはどうかと発言した。この到達点を踏まえ、さらに発展させることが我々の任務であると感じた。

4-17(日)

4-18(月)

 午前坂外来、午後北部診療所、このところ、被災間もなく薬だけで対応していた患者さんが受診される方が多い。それだけに、大津波の実体験者が次々と話されてゆく。例1:80代女性(七ヶ浜町菖蒲田浜在、港の道を挟んだ正面にある)地震は自宅にいた。近在の娘さんが車で駆けつけ避難しようとしたが、とりあえず後ろにあるやや高台の妹宅に避難した。ところが津波が1階を襲い2階に避難した。1階にいたその家の人々3人は津波にさらわれ犠牲となった。翌日消防団に2階から救出され坂病院へ搬入、低体温症として加療され助かった。家は完全に流出した。例2:80代女性(塩釜市港町在)地震時は自宅にいた。津波警報で夫と車で逃げた。国道45号線の多賀城八幡で車のラッシュにあったところで津波に襲われ、車の屋根に上ったが、危険なので近くの工場に濁水を漕いで移動、その2階に避難した。夜になり雪も降りだし寒さで震えながら1夜を過ごした。翌日救出され坂病院に搬入された、低体温症として1日入院し、その後多賀城の娘宅に居る。家の1階は泥で埋まった。例3:骨董品店経営の90代男性(塩釜市北浜在):家は傾き、泥流に襲われた。商品の多くを失い、損壊した。被災後の始末で多くを廃棄したが今になって考えると、貴重なものを先に廃棄しており後悔している由。娘宅に避難。60代男性(塩釜市在、定期船会社社長)塩釜湾にある観光施設で地震に会う。客たちを3階のフロアに案内し、津波を2階で観察した。持ち船の一艘が津波に押し寄せられ岸壁に上げられそうなため、他の船とロープでつなぎ、終夜エンジンをかけて船を曳き守った。避難した客や近所の人々には、施設にある食堂などの食材を集め、持ち船の調理場で調理して提供した。気仙沼は、近海航路船が全滅したため1艘提供した。昼に今田院長と電話で打ち合わせ。天下県連事務局長と、全県の組織立ち上げの件について要求しておいた。阿部君(仙台宮城野区医師会代表幹事、同級生)より電話あり。仙台岡田小学校の避難所に来ている民医連の看護師たちはいつまでいるのか。他の自治体派遣グループはそろそろ立ち退く予定のようだ。民医連はその後も続けてほしい。大変頼りにしている由。函館西高校9回生同級会の知らせのはがき届く。参加して大震災を伝えるか。会の事務局長の中山君に電話で伝えた。歓迎された。震災後のテレビでの被災者の伝えるものは、人間の誰しもが持つ真の姿-愛おしさを強く感じさせる。

4‐19(火)

 柴田町協同クリニック、今日から仙石線が仙台―東塩釜間再開通した。国道45号線の車のラッシュはかなり改善した。JR踏切でストップさせられることが新鮮な感じだ。

4-20 (水)

 午前坂クリニック、午後在宅往診、長沢氏の話では、仙台岡田の避難所から明日より医療班配置は不要との連絡あり、よって中止することにした由。このことを阿部君に電話で伝えた。阿部君の希望していたことと異なる事態になったと伝えた。彼は、驚き避難所に行き確認したい由。その結果、避難所内での内紛のために起こったこと。従来の中心人物が、批判され一方的に支援者たちに断りを入れた結果であること。避難所での現実に変化なく、引き続き医療班の配置を避難者は希望していること。現地にいる民医連の支援者も、突然の断りに納得ゆかぬと述べていること等の話であった。この件、早速長沢氏に伝え再検討を求めた。坂の退職職者の阿部京子さんより電話あり、前田信雄先生から問い合わせありとのこと。暫くぶりの会話であった。国立公衆衛生院から北海道の大学、その後熊本、・・で現在東京在とのこと。故高橋実先生の「東北一農村の医学的考察」に関する著書作成中、情報がほしいとのこと。

4-21(木)

 7:30~10:00 多賀城の津波被災地帯を歩く。国道45号線と産業道路間にある車の集積地に行く。広大な土地に損壊しつぶれた車、車が列をなして並んでいる。遠くには新車が山になって積み重なっている。作業中の関西弁の男によれば、ここは元来車の中継基地であること。街道に置き去りになっている車が搬入され持ち主の現れるのを待っている。また日産とスズキの新車できずものが山のように積み重ねられている。夜間にライトを照らし車列の間をねりあるく者がいる。タイヤなど部品の窃盗者だという。関西では、中古車の購入価格が5~10万で修理し20万で売っていたものが、今ではその倍になっている。東北の買い手が関西に行っている。仙台港まで行く。港の整理は進んでいるようだ。破損船はなかった。周辺の物流などのトラック基地も整備が済んでいた。帰りに被災住宅街を歩いた。道端には瓦礫の山があちこちにある。17:00世話人会 健康福祉部長がようやく自治体病院のベッドの開放を認めたことが遠藤県議より報告あり。会の立ち上げについて論議。

4-22(金)

 7:30発 石巻市北上地区へ、同道者(長沢、遠藤―民医連次長、みどり病院医師、水島協同病院看護師、水俣病院看護師、つばさ薬剤師、他1名)三陸道なるも松島あたりからラッシュ、3時間ほどかかり、石巻共産党地区委員会事務所に、そこで三浦地区委員長、田村参議院議員、赤旗日曜版編集部前田氏などとともに、途中西条市議(無所属)の案内で北上市に向かう。北上川沿いに走るも次第に津波の爪痕がむき出しになる。北上保健センターで主任保健師浅野友梨女史の話を聞く。人口3,800人のところ現在は2,600人、死亡、不明は300名。避難所11ヶ所、民家や地区の集会所にも避難している。総計680人収容、町唯一の橋浦診療所(町立)も水没。只野光一医師は避難所で診療にあたっている。愛媛県立病院が医療班を配置(4名)している。その他山岳医学会の精神科医が統合失調症などの巡回している。東北大学の糖尿病グループが10日毎巡回。保健師は3名(うち介護分野担当の1名は犠牲になった)、石巻市合併前は4名だった。北上総合庁舎職員の半数の17名が犠牲になった。唯一の介護施設の「北上老人ホーム(特養+グループホーム+デイケア)、岩手県に本部あり、県内には宮崎町、中田町にも同系列の施設あり、そこに移送している」は床上浸水した、長期入所者39名(定員40)、ショート9名(定員10)の入所者中犠牲者5名あり。地区には訪問看護ステーションはなかった。旧石巻地区から出向いていた。公立診療所は相川地区にもあったが閉鎖している。保育所は3学区に公立計3つあり。北上小学校の体育館を訪ねた。真っ先にあいさつを受けた老人は坂病院看護師長の後藤幸子の親だと名乗られた。只野医師とあいさつかわす。氏の両親は数年前に坂病院に入院した、船山先生にお世話になった。利府町に居住している由。体育館内を巡回した。お茶のみしている5名のグループの中に入り懇談に参加。家族犠牲になった人が3名いた。仲間の中で癒されているようだった。全員降圧剤服用者でコントロールされていたが、一人は高かった。只野医師の診察を勧めた。その後2か所の地区集会所に行く。大規模避難所に比べて落ち着きを感じた。50歳代男性で血圧高いと看護師に相談された。眠れているが、午前3時間、午後4時間を家族探しに出歩いている。母、妻、長女とその子、次女とその子の6人を探している。40日経つが家族の死を受け入れられないと気持ちを明かす。憔悴している。すでに医療班の処方で2種の降圧剤を服用しているが、追加必要だ。只野医師の診療を進めた。このような方が多数いるに違いない。この状況に置かれた当事者にならないとその苦悩は推し量れないように感じた。避難中の事業家(ガソリンスタンド等の経営者)と案内いただいた西条市議(同地選出、無所属、車修理会社社長)の話では、請求書は来るがどうにもならない。事業所、家とも破壊し流出した。相談する機関もない。との話を聞き、法律家や税理士などによる相談会の企画が必要と思った。田畑の8割が浸水した。帰路、日赤病院院長飯沼氏を訪ねる。日赤医療班と病院の活動や今後の課題について伺った。当地では、センター病院としての機能拡大が今後の課題であること。日常的な災害救援の意思統一が今回の役だったこと。震度5以上の時は職員自覚的な招集が夜間も含めかかり、直ちに医療班を編成し行動に移すなど慣習化している。など日常的に積極的な災害救援活動に取り組んでいる。そのための定員上の配慮はされていない。 **感想**この地区は、事前の情報に比して、早期の医療班の介入があった。役場機能が壊滅状態の中で、被災3日目に日赤石巻病院に出向き救援要請したことが良かった。担当者の積極的行動が地区を救ったかと思われる。このことは、石巻市の災害対策本部では把握できていなかった。①平成町村大合併の影響は如何に?が私の関心ごとであったが、主任保健師からは、定数が1名減は痛いが本庁の指導指示は助かるとのことであった。市議は、“合併亀裂”が大きかったためか、あまり語ろうとしない。当地の如く、所謂ライフラインのみならず、行政、医療、福祉の機能が崩壊した時の地域生活維持のための構造をいかに構築すべきかの課題は総合的に検討すべきであろう。②民医連医療班の今後、日赤医療班等の活動は、広く行渡っており、今日の段階で民医連が医療活動として介入するとすれば、中長期的に固定した医療活動の企画の検討が必要だ。スポット的、入れ替わりの活動では地元の要望に応えられない段階に来ている。その検討、腹構えを作れるかにかかっている。しかし、そのようなことになると全日本はおよび腰のように見える。それが現実であろうが。③夜NHKテレビで、石巻日赤の石井医師の活動を伝えていた。避難所の生活環境、食糧問題等にも積極的にかかわり、県当局にも直接攻め上げるなど積極的だ。早期に300の全避難所調査に取り組むことや、その後の状況把握の活動など含めその積極性に学ぶところ大。民医連がこのような活動を生めなかったのはなぜか、医療班が入れ替わり立ち代わりであったこと、坂病院担当職員自身が外回りに加わらなかったこと、中心になった職員の問題意識にあったか。思考方法に、自ら動くことより、行政などの既存の組織を動かすことに主たる問題意識を置いたことなどによるか。いろいろ考えさせられる。

4-23(土)

 11:00 弘前の品川先生より電話あり、無事の確認と「こんな時こそ君の出番だ」と励まされる。連休明けに仙台を訪ねるので会いたいとのこと。17:00 第4回県民復興会議(準備会) 5分野からの報告あり、医療、福祉分野の報告をした。保険医協会の北村氏、協会の水戸部氏より追加発言あり。避難者、被災者地震の組織化が大事な課題を確認。会の旗揚げについて確認された。

4-24(日)

4-25(月)

1:30医師会館で会長と懇談:18:30 AALA理事会 会員に犠牲者いない。被災者として石巻庄司氏、東松島市鹿野氏がいる。全国aalaの募金90万円を東北3県で3等分し、会員被災者に贈ることにした。5月の憲法週間行事は、会場確保難のため中止確認。

4-26(火)

柴田クリニック、16:00 100年委員会 18:30県民世話人会、遠藤県議から、本日の常任委員会で部長に自治体病院の空きベッドの活用を認めさせた由。

4-27(水)

午前外来、午後往診5件、明日の会議資料作成。輪島の漆工房大徹氏より、特産わかめ届く。気にかけてくれてありがたい。

4-28(木)

 喜代人間ドック、13:00~国際センター 地盤工学会、震災被害調査研究第1報報告会 「想定外」の言葉も出て、“反省”の言葉がなく報告が続くことに違和感を持つ。18:00坂対策本部会議:県民センター(仮称)の提案をした。今田院長より、県連として加わることに反対する、個人として参加したい由。理由は現在坂で進めている地域の諸団体結集の運動に差し障るから。この県組織は、共産党とその支持団体に限られ幅広い復興の取組にならないからとの理由でもあった。論議で決着つかず。

4-29(金旗日)

 8:30 坂病院対策本部朝ミーテイング参加、水戸部氏と福岡坂事務局長と昨夜の院長の発言について論議す。天下事務局長の配慮のなさ、不十分さについての指摘あり。基本的に矛盾ないことを確認。支援隊参加の真家君とあいさつ。13:30~14:00水戸部、天下と打ち合わせ。県連と坂との関係がしっくりいっていない。常務会と坂管理部会議が月曜日で重なっている。調整に苦慮している由。事務局長としても現場に入る姿勢に欠けるところありそうだ。14:00~17:00鶴岡グループ(真家、岩本専務、高橋医師、奈久井女医)と東松島-松島-七ヶ浜-多賀城工場地帯を案内。声も出ないほどの驚きようだ。帰宅後、隣家の小松さんと町内会班長の引き継ぎ行う。大腿骨骨折で入院したとか。19:00 鶴岡3医師を我が家に招く。喜代の手料理に感動(奈久井女史談)などみなさん大変喜んで帰った。彼女は弘前大学出身の10年目、三河診療所長で看護師2名とやっている。やりすぎて後で批判されるのが不満だ。父は八戸で整形外科医だった。阿部俱子女史を知っているとのこと。真家君への喜代評は「さすが研究者を目指してきただけあって、どっしりと落ち着いている感じだ」「手料理が喜ばれてよかった。」

4-30(土)

震災以降の未整理の新聞を整理した。震災翌日から数日間の新聞が欠ける。赤旗記者本田氏より電話あり。災害関連死について聞きたい由。今田院長を紹介する。夜,玄・順子やってくる。オーストラリア訪問話。石井夫妻からの赤ワインを土産に。七ヶ浜の計画は中止の方向と話す。

5-1(日)

10:00 仙台MAY DAY参加。塩釜は会場の未整備なため中止。勾当台市民広場に参集、坂病院の集団が見あたらない。水戸部氏と今田氏と会話。今田氏とは先日の会議での件を話し合う。今やるべきこととして何を先行させるべきかについて意見異なる。県連トップとの意見調整は率先してやるべきと伝えた。雨模様が次第に晴れにそしてデモ 開始時には曇り空に。松島医療生協グループに交じって行進。目の前を泉の坂本女史がいた。挨拶すると隣に三浦女史がいた。思いもかけぬ暫くぶりのご対面であった。すでに退職し,友の会活動を手伝っている。震災前に実家の母親が亡くなり鶴岡にいた。坂本さんと10余年来マンションに同居している。参加者1,800人、仙台でのメーデイとしては少なすぎる。

5-2(月)

午前外来、午後北部診療所、昼に大山氏(東京民医連)が役員室へ現れた。川崎医療生協は5年目になる。よく頑張っている。

5-3(火 憲法記念日)

10:30世話人会、13:30原発問題講演会 弁護士会館 3:30那須行 みづき宅泊

5-4(水)

福島丹治家によって帰宅

5-5(木 こどもの日)

「世界」震災・原発特集5月号読む。7月の能登行き計画、予約取る

5-6(金)

午後松島海岸診療所14:00~18:00 勤務

5-7(土)

18:00 世話人会

6-11(土)

いのちとくらし総合研究所一行の三陸震災視察  前夜SPAL松島にて県民センター世話人代表綱島、次長賀屋、村口と石塚、高柳、竹野、さらに萩原(坂病院)と懇談、ホテルで大本女史と合流後、日程の打ち合わせ。翌朝6時出発予定も、運転手萩原氏が30分以上遅れたため、路程変更し利府jから三陸道に入る。途中松島あたりから込みだす。河南ICを過ぎ降りることを勧めるも、豊里ICまで行ってしまった。萩原氏は道案内に問題あると判明。万石橋から海岸線を小渕浜へ向かう。県漁連会長菊池稔氏は倉庫の2階に案内してくれた。妻と孫2人を紹介し、嫁と孫1人を失った由。「独占的漁業権とマスコミは言うが どういうことか」との問いに、訥々とここでいう漁業権とは、湾内の養殖や浅海漁業についてであること、そこは代々にわたって海の管理をし生産の条件を作ってきたこと等々話された。いつの間にか庄司弁護士が座に加わっていた。のちに聞くところでは、坂病院の村口というのが来るので同席してほしいとの電話があった由。底引き網漁の網に重りをつけ、海底荒らしを防ぐため、中古車の油を抜き洗浄して海中に200台埋めるなどする際に、庄司代議士の世話になり、以来の付き合いだとか。漁師は不漁の時も大漁の時も、仲間と分かち合い、浜を守ってきた。朝起きてから日が沈むまで海での仕事が漁師の生活だ。株式会社の社員では浜は守れない。過去に銀鮭問題があった。女川、歌津に漁業権をそのままにして、社員として雇い、エサ供給で買収する。ニュージーランドでも同じ会社がはじめ、結局低価格競争で経営破綻して投げ出していった。農業の様な漁業基本法がないのも問題との指摘もあった。その後、庄司氏の案内で南三陸町の共産党大滝町議と会い、その紹介で町の仮設役場で保健師2名と会う。保健師の被災下での活動の話を伺う。透析患者80人は北海道と神戸に搬送した。町の防災対策会議には、被災2,3日目から県と国から役人が参加している。本吉病院入院19人を米谷に搬送、翌19日には院長、副院長の2名の常勤医が退職し医師不在となった。役場の職員80人中1名死亡(保健師)。合併した本吉、唐桑の情報が入らない。水道給水の遅れが困る。た。避難者の保健活動
  一関市の旅館に泊まる。夕食前にジャズ喫茶ベイシーに案内、その後旅館近くの料理店で郷土料理を味わう。6月11日(日)朝7時半出発、陸前高田市の共産党市議・・氏を当事務所と共同救援センター付設の仮設を訪ねる。避難所では平等主義のため物資が必要なだけ受け取れない。ここでは、ダンボールのふたを開けっぱなしで、自由に必要なだけ気兼ねなく持って行けることが受けているとのこと。沢山の人がやってきていた。民主市制の与党としての意気ごみが伝わってくる。町の入口と出口には、○○宣言の市という5,6の標識が1本の杭に並んでつけられ立っていた。これも町の姿勢を示すものとして好感が持てた。この町の大半が津波の被害で更地になっていた。海辺の1本松も枯れ出していた。町づくりの努力が無残にも破壊された。その後、住田町の木造町営住宅街と仮設を見る。木造の柔らかさが気持ち良い。さらに大船渡を経て気仙沼に入る。大船渡港の奥深さにびっくりした。この高台の地に、熊正が高校まで過ごしたのだ。なぜにこのような環境の良いところから脱出したのか。ともふと思う。気仙沼では、民商の事務所で事務局長と秋山共産党市議に話を聞く。
漁業関係者との接触はない由。研究所のご一行を新幹線一関駅まで送り、帰路に就く。
 彼らとの話は実現の可能性ありや?
①研究所の出先を石巻に置くこと。震災の復興過程に、研究所の目的を実践的に進める。漁業の再生に「協業・共同」の視点からの可能性を探る。
②木村会長、庄司弁護士を交えた座談会の企画をする。

6-29(水)

坂外来で、初診の70台の女性。主訴は顔面の下半分が火照る。目がごろごろするので眼科受診したが、角膜炎とされた。しかしこの症状については内科に見てもらえといわれ受診した。震災は、仙台駅地下のS-PALであった。間もなく停電になり、煙も蔓延してきた。外へ逃げろの掛け声で外へ出てタクシーで、産業道路をジャスコまで来たところで、渋滞に巻き込まれ、運転手がドアを開け外に出たがすぐなかに入った。間もなく車が浮きだし、車内に水が入ってきた。次第に胸まできて体が浮きだしあり、まぢが、窓をたたき続けた、3度ほど何かにぶつかったような強い衝撃があり窓ガラスが割れた。そこから身を乗り出すと、パチンコ屋の屋上から男たちがタイヤを縛ったロープをつり下げてくれ、救出された。一晩屋上の駐車中の車内で過ごし、翌昼に自衛隊のゴムボートで避難所に送られ助かった。

7-3(日)

「漁業の未来を考える 県民のつどい」(県民センター主催、石巻専修大学) 350席の階段教室が満席になる。綱島不二雄代表世話人の漁業権についての問題提起、木村稔県漁連会長の講演、石巻魚市場幹部、卸業者社長、COOP理事などの発言あり、最後に壇上に参加漁業者10余名上がりガンバローやった。漁業者の怒り、漁業権とは、知事の独善とその狙いなど認識が深まった。喜代といのくら研竹野夫妻を被災地 東松島野蒜、石巻海岸、日和山からの眺望など案内す。帰路は民医連新聞記者木下女史を同乗し帰宅。喜代は、七ヶ浜を除き被災地には初めて入った。

7-7(木)

水戸部氏と民間病院支援助成金請願のための病院訪問をした。東松島鳴瀬中央医院、東循環器病院、仙石病院、伊東医院、石巻港湾病院を巡った。お会いできた院長、事務長は快く賛同。鳴瀬の斉藤隆之先生の元気な顔に会えた。昨年肥大型心筋症として労災病院入院した由。同門会から中古の医療機器など寄付がありありがたかった。息子が継いでくれているので楽している。自宅にいた98歳の祖母が犠牲になった。昔からの倉は前回の地震で倒壊していた。職員の家族が数名犠牲になっている。保健所と市職員の訪問があったのは4月になってから。東循環器では院長不在にて事務長と話す。大型医療機器は東芝がもってくれた。石巻港湾病院石田院長は、私のことを知っているようだった。喜代と同期であった。1階は全滅。入院120人のうち、1週間以内に亡くなったのは30名、本部東京にある法人院所からの応援があった。高齢の医師2名とで苦労が偲ばれる。しかし、明るい表情に救われる思いだった。この件で、翌8日、仙塩病院理事長を訪ね賛同を得る。患者回復は50%とのこと。

7-12(火)

 宮城革新懇主催「漁業権」講演会を聞く。141エルパーク4階、会場ほぼ満杯。県漁協専務理事船渡隆平氏の話を聞く。〔被害状況〕漁業には、遠洋、沖合、沿岸養殖、水産加工の4分野に分類される。このうち、県漁協(3.11以前組合員10,630人、職員320人)は沿岸養殖にかかわっている。犠牲者452人、家屋全壊4287、半壊724、床下浸水293、床上浸水37戸。船の全壊3063t、半壊1,097t。回答5,964人の所有11,467隻、沈没8,422隻。個人面談での調査(4月20日現在、回答9,501人、回答率89.4%)によると、今後漁業の継続意志あり5,911人、未定884、廃業予定2,706人。その理由は高齢、後継者問題、新規投資で回収不能など。今後、継続意志ありはさらに増えるであろう。浜の瓦礫は1,800ユーベあり、これだけでも宮城県の従来の10年分に相当。海に流出した分は未調査。県内航路は整備された。県内には港が142あった。すべての浜が0.7~1.5m沈下しており、海と岸壁の境界がわからず、作業は困難を極めている。そのために復旧が極めて遅れている。
このような状況の時に、県知事の唐突な発言には、短期間で13,499人の抗議署名が集まった。マスコミの悪質な報道である漁業者が「特区」賛成と述べたとあるが、当の本人は、私のところで謝ってきた。 〔漁業権について〕 日本の水産漁獲量が近年右肩下がりの中で、県の養殖生産は維持されてきた。三陸の恵まれた漁場特性により、魚種、量は日本一である。昭和24年の漁業法によって守られてきた。3つの共同漁業権について。北海道を除き、沖合1,000~1,500mの範囲に限定されている。そこには、区画漁業(のり、かき養殖)、採貝藻、地引・定置網の漁業権が設定されている。その他全て沖合漁業などは自由に解放されている。第1種区画漁業権は、県知事の免許制となっている。昔から、沖合から陸地の山と山を目安に「山計り(山ばかり)」をして区画を設定し「1村1漁業組合」と設定され、今日では、漁業組合が漁業協同組合になっている。古来から山野に見るような「入会権」はない。漁業権行使規則によって、平等に施行されてきた。養殖は、集団管理、共同、協業で成り立っている。漁の開始、終了も、網などの生産手段、計画生産、出荷量調整などすべて合議決定している。これを「せわり」と言う。漁協の絶対的役割は一元管理体制だ。宮城の漁業は、自然克服の歴史であった。漁業労働の最盛期は厳冬期である。その親の労働を見て子供たちが育ってゆく。毎年「海の子作文」を募っているが、300作品が集まっている。こうして後継者を作るのも漁協の仕事だ。
 企業は金の力で支配してゆく。民主主義も平等もなくなる。よい例が銀鮭養殖への企業参入がある。当初100億の生産が今や30億円に落ち込み、参加漁業者も300戸から80戸に減少している。こうして漁村文化が崩壊してゆくのを目の当たりにしている。大手の水産会社は、200カイリや資源ナショナリズム問題で、今や水産業から貿易・商社業に変身している。日本の食糧をどう考えるか。知事の提起に“漁民会社”の考えあり、まず企業ありきで反対だ。提案の“協議機関”は不要だ。今最も必要なことは漁業者の再生である。

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