各自の遺伝子情報は、究極の個人情報です。同時に、血縁者にも関わります。
自分や家族・血縁者の遺伝子検体提供については、 説明を聞き、よく知り、考え、相談しながら慎重に判断しましょう。
【このパンフレットも参考にしてください】
なお、
「東北メディカル・メガバンク構想」は、東日本大震災で被災した宮城県沿岸の地域住 民のゲノムコホート研究を内容として2011年8月の宮城県復興計画に盛り込まれました。
医療情報管理のための ICT(情報通信技術)構築と一緒に、国家的事業として計画され、 ICT(150 億)及びメガバンク(493 億)と巨額の予算が復興事業として計上されました。
2012 年 2 月には、その受け皿となる東北大学に「東北メディカル・メガバンク機構」 が設立され、新たに岩手医大も加わり、岩手県沿岸の被災者もその対象となりました。
機構長の山本雅之前医学部長は、挨拶の中で「東北メディカル・メガバンク事業は、複 合バイオバンクの構築、次世代生命医療情報システムの開発、そしてそのための高度専門 人材の育成を行います。事業によって、東北地方は日本のライフイノベーションの新規中 心拠点となって、単なる復旧に留ま
らない創造的な発展を成し遂げて いけると考えております。」と述べ ています。
計画では、被災地住民 15 万人規 模の健康・生活調査と遺伝子検査を、 3 世代コホートを含め、10年間に渡 って実施し、構築されたバイオバン クから遺伝情報の解析を進め、ゲノ ム情報に基づいた「未来型医療」を 築くとされています。
(東北メディカル・メガバンク計画 説明資料より)
被災地の生業の復旧と同時に、医療や介護の復旧が必須であり、劣悪な生活を強いられ ている被災地住民の健康管理や心のケアが必要なことは、言うまでもありません。
しかし、このメガバンク事業では、被災地の医療や介護の復旧・復興、乳幼児や学童を 含めた住民の健康管理に「ヒトゲノム(遺伝子)検査」という特別な事項が核心として加 わるところに重大な特徴があります。
各自の遺伝子情報は「究極の個人情報」といわれ、 その取扱いには最大の配慮が必要な分野です。
遺伝子関連の聞きなれない専門用語や「カタカナ語」が多く分かりにくいので以下少し、 解説します。
人間だけでなく、私たちの周りの動植物において、親から子や孫にその姿かたちや体質が伝わることは、経験的に理解されており、昔から私たちはそれを「遺伝」と呼んでいました。
生命科学の長年の研究で、この「遺伝」をつかさどる物質的な実態が解明されてきました。
それは細胞の核の中の染色体、さらにその中のDNAという物質で、4種類の化学物質(A・T・C・Gの4塩基)が対になってつながり二重の螺旋状の糸になっているという構造でした(1953年ワトソン、クリック)。
ヒトでは、この4種類の塩基の対が30億も連なり、その並び方が遺伝の情報として利用されています。
この約30億の塩基の連なった全遺伝情報のことを「ゲノム」と表現しています。
各自はゲノムの半分ずつを親からもらい、その半分を子供に伝えます。
このゲノムのいくつかの部分が連なって、遺伝子として働き、細胞の中の蛋白質合成の設計図(鋳型)の役割を果たしています。(下図)
1993年からこのゲノムの国際的解読計画が開始され、2003年にはヒトゲノムの全ての塩基配列が解読されました。
その後、ゲノムの解析技術は急速に進歩し、各国が生活習慣病や癌・難病、認知症の診断や治療、それに
関わる新薬開発の可能性やその特許や利権を求めて、研究者・医薬関連産業を巻き込んで国際的な競争に突入しています。
また、個々人の体質をゲノムから予想できれば、オーダーメイドの医療や予防が可能になると期待され、これらを未来型医療として宣伝しています。
一方では、遺伝子を操作する遺伝子工学も進歩し、人間以外の動植物レベルでは遺伝子組み換えなどは日常的に行われるようになり、医薬・農業・畜産業などでバイオ技術として広がっています。
限定的ですが、人間に対しても遺伝子操作による治療も試みられるようになっています。
「バイオ」という言葉は、もとは「生物」「生命」の意味ですが、遺伝子関連の分野に多く使われるようになっています。
「バイオバンク」は遺伝子関連検体・データの大規模な貯蔵という意味です。
それを研究機関に提供(貸し出す)ことになります。
メディカル・メガバンク事業では、検診や診療の場で、被災地のみなさんに、「未来型医療、すなわち個別化医療・予防の実現のために」ということで、遺伝子検体提出や健康調査への協力を依頼することになります。
ゲノム研究者は、各個人のゲノム情報と生活環境や病歴を多数比較することによって、人間の病気や体質とゲノムの関係が解き明かされ、その暁には、一人ひとりの病気の起こりやすさや、薬の効きやすさなどが、遺伝子検査で前もってわかるようになり、一人一人の予防や治療に利用できるようになると考えています。
このような仮説を実証するためには、病気になった人とならなかった人のゲノム配列の違い、薬の効いた人とそうでない人のゲノム配列の違いを調べ上げなければなりません。
人間は30億対余りのゲノムで構成され、そのほとんどは「ヒト」として共通していますが、各個人でみると0.1%の300〜400万箇所で違いがあり、これを一塩基多型(SNP)とい呼んでいます。
これらの違いが私たちの体格や容貌などの個人差を生み出し、その一部が体質や病気に関わっているとゲノム研究者は考えています。(下図)
この膨大なSNPの中から、病気や体質にかかわるSNPを選別するには、万単位の膨大な人数のゲノム情報と病気・体質に関わる経時的なデータが必要になります。
このような目的で、長期に渡って、病気の起こり方と遺伝子の関係を追跡していく研究をゲノムコホート研究と言います。
そしてこの膨大な遺伝子検体と病歴や検査情報を貯め込むシステムがバイオバンクです。
その研究調査対象にされたのが、3.11震災で被災した地域の住民です。
このようなゲノムコホート・バイオバンクは、海外はもちろんですが、国内でもすでに行われています。
例えば、東大医化学研究所の「オーダーメイド医療実現化プロジェクト」、京大の「長浜コホート」、九大の「久山町コホート研究」、山大の「分子疫学コホート研究」など規模の大小、対象地域や対象疾患の違いはありますが、現在進行中です。
これらのバイオバンクとの統合を考慮しながら、さらに大規模なゲノムコホート研究を行うための拠点を東北に作る計画がこの「東北メディカル・メガバンク」なのです。
ゲノムの研究が急速に進歩する中で、将来はゲノム検査で個人のすべてが分かるような 報道や宣伝がされがちです。
前に紹介した個別化医療・予防とかオーダーメイド医療も未来型医療として宣伝されています。
一方では、ゲノム研究の結果の一部をつまみ食いのように利用して、薬の副作用、体質や性格、子供の能力の遺伝子診断をインターネット通販のように行う営利目的のゲノムビジネスも行われ、国内では野放しになっています。
しかし、私たちの約30億の塩基対からなるゲノムは、約40億年の気の遠くなるような時間の中で地球環境との相互作用で生命進化として積み上げられたもので、その配列が分かることとその働きが分かることとは全くレベルの違うことです。
ゲノムは単なる設計図ではなく生命進化の膨大なアーカイブ(蓄積)であり、生命活動はその一部の遺伝子だけで決定・解釈できるような単純なものではありません。
例えば、一卵性双生児のゲノム配列は全く同一ですが、容姿や立ち振る舞いはよく似ているものの、胎発生時から指紋は違っていきますし、出生後もそれぞれが置かれた長い人生の中で、多様な変化が生じていきます。
ハンチントン病、フェニルケトン尿症、血友病などの病気は単一遺伝子病といわれ、その遺伝子の存在や欠損と強く関わって
います。
それでも、発病の時期や程度には個人差があります。
未来型医療で話題になっているような生活習慣病や認知症、癌、精神疾患、体質などは、環境との強い相互作用の中で、多数の遺伝子が複雑に関連しながら、発現してくるものであり、遺伝的な要素はその一部にすぎず、それだけで語れるものではありません。(下図)
このような病気や体質とゲノムの関連を解き明かす研究を否定するのもではありませんが、「未来型医療」として過剰な期待を抱かせるような宣伝には問題があります。
例えば、発癌についても、遺伝子の影響の濃厚な癌も一部にありますが、多くは加齢や環境因子の関わりが重要です。
例えば、原発事故でまき散らされた放射能は、生来の健常な遺伝子を知らず知らずのうちに傷つけ、傷つけられた部位によっては発癌に結びついてしまいます。
まさに環境核汚染による遺伝子損傷で、その結果としての発癌です。
遺伝子検査による個別化医療・予防への期待が語られますが、遺伝子検査には、もう一方で慎重に考慮すべき事項があります。
これは差別や偏見、格差を放置・助長するような私たちの社会のあり方にも深く関わる問題です。
法の下での平等を唱える法治国家でも、人種差別は地球上のいたるところで見られ、地域社会でも家系とか血筋で個人を評価する風潮は根強く残っています。
従来は、外見や振る舞い、血縁者の病気などから遺伝を漠然と推測・把握していましたが、遺伝子検査によって、より客観性を持って可視化され数値化され、コンピューター上の情報として管理できる状況になってきています。
技術革新でゲノム解析の時間もコストも急速に低減しています。巷では、子供の才能を遺伝子検査で推測する商売まで横行しています。(下図)
企業は、利益の最大化を求め、より有能な、病気になりにくい人材を採用するため遺伝子情報を知りたい衝動にかられます。
生命保険会社は、保険金支払いのリスク軽減のために、個人の遺伝子情報を得たい衝動にかられます。日本には人権を守るバイオバンク法や遺伝子差別禁止法はまだありません。私たちの社会は、そのようなリスクを常に抱えています。
家系に重大な遺伝病があった場合など、自分や自分のパートナーにその遺伝子が伝わっているかを調べることは比較的簡単にできるようになり、そのような遺伝子検査ビジネスも欧米では一般化しています。予防や治療の可能な病気であれば対策も可能ですが、ハンチントン病のように治療法がなく予後不良の遺伝病の場合、その結果を知りたいか知りたくないかはその人の人生観や人生設計に関わる重大な問題となります。
また、特定の地域対象の遺伝子研究で、何らかの劣性遺伝子が見つかり、それが不用意に社会に公開されると、そこの地域出身者全体がそのような偏見でみられる(地域スティグマという)可能性はまれではあってもありうることです。
あるいは、三世代コホートで祖父-母両親-子どもの遺伝子検査で予期せぬ実子関係が明らかになることもあり得ます。
このように遺伝子情報は、個々人に所属すると同時に血縁者、さらには地域にも及ぶきわめて重要な情報ですが、だれがどのような目的でその情報を収集し利用するかによって深刻な人権問題を引き起こします。
特に、遺伝情報の電子化の中で、セキュリティが破られれば、大量の個人情報が流出する事態になります。
法制度も未成熟で、差別や格差が野放しの社会で、利権や業績のために遺伝子を求めるような国や企業や研究者に自分や家族の遺伝情報を安易に渡していいのか?
個々人の問題にするだけでなく、社会全体で議論すべき課題ではないでしょうか。
前述のように、2003年以降、オーダーメイド医療実現化プロジェクト(バイオバンクジャパン)や長浜バイオバンクのように国内でも数カ所でバイオバンク事業がすでに行われています。
それなのに、なぜ新たにこのような巨額の復興予算を投下し、しかも被災地住人を対象としたバイオバンク事業が計画されたのでしょうか。
すでに震災前から、2010年の新成長戦略、それに基づく医療イノベーション会議で、大規模バイオバンクに関する国家戦略が財界・政界・官僚・学会の中で練られていました。
医療イノベーション会議では、「・・・近年、日本の医薬品・医療機器を取り巻く環境は変換期を迎えている。日の丸印の革新的な医薬品・医療機器の創出が伸び悩み、むしろ輸入超過の傾向が大きくなってきている。・・・競争激化の中で、世界的に、創薬・医療機器研究開発の環境は厳しい局面を迎えており、グローバルな企業間競争に勝ち残るには、世界的に通用する製品を生み出す研究開発と開発した製品を市場に投入するための商業的取組等を積極的に実行する必要がある。・・・」と率直に語られ、下記スライド資料のような医療情報ネットワークとバイオバンクを構築する政策を提示しています。
ゲノム創薬を巡る熾烈な国際競争の中で、医薬関連業界と政界の焦りを背景に、3.11東日本大震災の被災地復興を口実にその政策が動き出したと考えられます。
「被災地復興」を看板にはしていても、「創薬・医療機器研究開発の生き残りのために、被災地のゲノムを利用する」という国家的思惑が背景にあります。
今後、被災地住民は、産科診療や住民検診、学校検診さらに日常診療の中で、「ゲノム調査への協力」が求められることになります。
医師や管理者や上下・利害関係者からの直接の依頼は不当な強制にあたり、倫理的に問題となります。
通常はコーディネーターが別室で説明し、任意性を保証する形で同意を求めることになります。ゲノム提供が強制されるようなことは決してあってはなりません。
その場合の私たちの権利といくつかの留意点を以下補足します。
まず、ゲノム検体の提供にあたっては、きちんと納得のいくまで説明を受ける権利があります。
当然、納得できなければ断る権利もあります。断ったことによって差別や不利益を被るようなことは絶対にあってはなりません。
遺伝情報は個人に属すると同時に、親子など血縁者の情報も一部共有しています。一人では決められない、一度では決められないことは当然ありえます。
その場合は、持ち帰って、家族や血縁者とよく相談して決めていく必要があります。
ゲノム提供にあたっては、その利用目的と範囲をきちんと確認する必要があります。
例えば、癌の遺伝子の研究のための提供で同意した場合、同じ遺伝子検体を精神病や認知症の遺伝子の検査に流用することは倫理規定違反になります。
また、「医学・医療の発展のために」などと漠然とした利用目的で同意(包括同意という)すると、その後、研究者の都合で如何様にでも流用される危険があります。
一度、ゲノム提供に同意しても、考え直して撤回する権利も保障されています。
さらに、遺伝子情報は提供した個人の固有の情報ですから、提供者はその内容を開示請求する権利もあります。
当然のことながら、そのセキュリティは厳密に守られなければならず、無断で第三者に流されるようなことは決してあってはなりません。
以上のような、ゲノム提供に当たっての同意書は、きちんと双方が書面で確認することになります。
特に、子ども(未成年者)を対象とした医療における遺伝子検査については、「将来の自由意思の保護という観点から、未成年者に対する遺伝学的検査は、検査結果により直ちに治療・予防措置が可能な場合や緊急を要する場合を除き、本人が成人に達するまで保留す
るべきである」という日本医学会のガイドラインがあります。....
ゲノムコホートの研究目的に同意能力のない子どもの遺伝子検査を行うことに対しては、子どもの人権の視点から慎重な検討が必要です。
2012年2月16日東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センターとして「東北メディカル・メガバンク構想」について、関係者の熟慮を求める趣旨の意見書を県内の医療福祉関係団体や自治体・政党等に郵送し、その後県庁記者クラブで記者会見を行いました。
意見書の要旨は、本構想の中核であるヒトゲノムコホート研究は、医学医療のイノベーションを実現する一つとして期待される分野ではあるが、運用次第では取り返しのつかない人権侵害をひきおこす危険性があることを指摘し、
以上の5点にわたって、関係者が慎重に検討されることを希望する。
という内容です。
特に、被災された方々は、居住地やコミュニティも失い、家族も分断され仮設や他地区での生活を余儀なくされ、未来も定まらない中、生業とコミュニティの復旧に必死に取り組んでいる状態です。
このような非常事態の方々に、遺伝子検査という繊細で複雑な課題を打診すること自体が適切かどうか熟慮すべきです。
人間を対象とする医学研究の倫理指針である「ヘルシンキ宣言」では、不利な立場または脆弱な人々あるいは地域社会を対象とする医学研究については、倫理面でも慎重な姿勢が強く求められています。
私たちは、東北メディカル・メガバンク機構が行う医師派遣や健康相談・心のケア活動は大切な活動だと思います。
しかし、遺伝子検査は被災地の直接的要求ではなく、国家事業の押し付けです。
このような大規模な国家的バイオバンク・ゲノムコホートは、広く国民的議論を行い、法的な整備も行ったうえで全国的に呼び掛けて実施の検討をすべきで事業であると考えます。
もう一つは、貴重な復興予算の使い方です。ICTとメガバンク合わせれば数百億円の税金の投入です。
石巻市立や志津川病院など公的病院再建の配分は何とか予算化されましたが、その他多くの民間医療機関は再建しようにも、わずかな補助率では再建もままならない状況にあります。
貴重な復興財源の使途として優先順位が違うのではないか?というのが率直な思いです。私たちは、復興予算は、復旧・復興に直接役立つものに優先して使われるべきだと考えます。
特に、2013年4月からの、宮城県の被災者の医療費窓口負担免除の打ち切りは、健康管理上深刻な事態を招きます。
免除制度復活は最優先の課題です。